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ヤッター!ホームページできたよー\(^^)/
オレの名前はケン。モテカワスリムで愛され体質な男子高校s――。んー……。無理、あの頭の悪い文章は俺にはコピれねぇw
やっぱ普通にいきましょうw
〜ホームページをつっくりーましょー♪〜
「何……だと……?」
――まさか、そんなはずは――。
こ、この俺がプロバイダー契約書をなくしたっていうのか!?
そんなことがあってたまるか。それじゃあパスがわからなくて折角つくったホームページデザインが無駄になってしまうじゃないか。
俺の一時間弱の努力はどこに消えた?
いやいや落ち着くんだ、俺。まずは素数を数えることから始めるんだ。そして次第にレベルを上げていき、分数の足し算が出来る所まできたらお前はもう冷静だ。
そう、もう一度KOOLになって戸棚を漁るんだ。
「COOL! COOL! COOL! COOL! COOL!!」
ガシッ!ボカッ!ダメだった。オレは諦めた。スイーツ(笑)
やぁみんな、僕はケミー。今日はホームページを作れというのでやってみたのさ。
まぁやっつけ感漂う適当な作りなんだけど、とりあえず出来たことは出来た。
上記の通り俺はプロバイダー契約書を紙の海からサルベージできなかった無能者なので、仕方なく契約している所とは別の所とレンタルサーバー契約を結ぶことに。
しかしさすがにやっつけ仕事の速さに定評のある俺。うーん、多分ニアだかメロだかネロだか忘れたけどあいつならきっとこう言う。
「ジェバンニが二時間でやってくれました」
うん、マジでもうちょっとかかると思ったんだけど、ホントにニ時間で出来ちゃったよ。
結構簡単に出来てしまった。まぁツール使ったから当たり前なんだけど。
というわけで、とにかくこれでサークルとしての体裁は整った!!
部員たちよ!そして来訪者の方々!存分に活用するが良い!!
それからこのページに短編小説とか載せていくと思います。
部員たちは書いて、お客様方は読んでおくれ♯
そうそう、漫画もそのうち上げるつもりだからよろしくw
んじゃお疲れ♯
副部長でした。
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引っかかったな! ここが戦場ならお前の顔は食われている!!
イラッときたら掲示板に文句でも書いていってね!!
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「T'm here, from nature.」 連載式 著 一年生:悠 |
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山川幸はこう言った。
「幸せじゃないです。私は、どうしようもなく、不幸せなのです。わかってください。わかってください。みなさんに問います。必ず答えてください。幸せってなんですか?何処にあるのですか?いつくるのですか?どんなカタチをしているのですか?私にどのような影響を与えるのですか?教えてください。教えてください。僕にはわからないのです。どうしても、掴むことができないのです。父にそう言ったら、『幸せは空気みたいなものだ。ははは、幸にはまだ幸せを理解するのには尚早だろう』と言ってました。僕は知っています。それは誤魔化しであるということを。幸せはすでに近くにあるとも言っていました。ならば、ならば在るはずじゃあありませんか!見せることなんて容易でしょう?なぜ?求めているのに見えないって、どういうこと?存在するのに実感しないって、どういうこと?矛盾。これを矛盾と呼ぶのを、僕は知っている。あぁ、僕が死ぬまでに、見つけることができるのだろうか?」
山川幸はこう言った。
「私ね、今日ね、とってもご飯が豪華だったの!!お肉っておいしいね!!レバーは嫌いだけどね、それ以外のね、お肉は全部好き!!嬉しいときってね、やっぱ人に言いたいよね。だからね、私ね、お父さんにね、素直にこんなおいしいものと出会えるなんて、私幸せ!!って言ったのね、最近お父さん元気なかったから、励ましの意味も込めてね。そしたらね、ちょっとおかしな出来事だったんだけどね、お父さんね、私に微笑み返したらね、急に泣き出しちゃったの!!あれ、どうしたのかな?ってびっくりしちゃってね、私が変なこと言っちゃったから?って聞いたら、お父さんたら鼻水を垂らしながら(すぐに拭いてあげたけどね)、『そうか、そうか。幸は幸せかぁ!名前の通り、幸せか!』ってね、すっごく大きな声で言ったの。私、すごく慌てたわ。だってお隣の橋本おじさんを起こしちゃうと思ったんだもの。まぁ、そのときは夜でもなく、お昼の時間だったんだけどね。とにかくお父さんは泣いていたけど、笑ってた!!だからすっごく嬉しかった!!お父さんも幸せそうだった!!幸せって、こんなものなのかな?―――うん!!きっとそうなん
だと思う!!」
I`m here. From nature.
◇
これは、神様の悪戯なのだろうか?
いや、そんなことはない。そう言って、現実から目を背けてはならない。
とにかく、事は起きた。直視するしかない。
誰がって?
そんなの当たり前だ。それを決めた。我々人間が、だ。
人間による行為、すなわちsexによって、女の身体に生命が宿り、人間の本能によって、形をなし、人間が建てた病院で、人間の知恵と努力によって、人が生まれる。今日もそれは変わらない。明日も、そして昨日も。
17年前もそれは変わらなかった。人が、生まれた。また違う場所で、人が、生まれた。生まれれば、人間の手によって支えられ、血をふき取られ、へそを切られ、名前をつけられ、人間が作った時間によって、生年月日が記録される。
17年前のそのとき、偶然が起きた。それは同時刻に、別々の場所であった。
7月20日(金) pm3:33
山川 幸(やまかわ こう) 体重:3115g 性別:男
山川 幸(やまかわ さち) 体重:2899g 性別:女
2つの命が誕生した。
もう一度言うが、全くの偶然である。二人の家系は全く繋がっておらず、まだ一回も出会ったこともない。なのでもちろん、この事実を誰も知らない。
家庭環境も全く違う。対照的である。これは、後にわかることであるが、一言でいえば、男のほうのコウは、いわゆるお金持ちの親の元で、女のほうのサチは、貧乏の親の元で生まれた。二組とも母子共に順調で、特に障害や病気に悩まされることなく育つでしょうと、看護師さんに言われた。
まぁ、二人とも順調な人生といくわけにはいかなかったのだが。
◇
山川 幸(コウ)が生まれた瞬間、医者達は歓喜の声をあげ、そして拍手した。その喜びの音が、ドアの外で今か今かと待ち続けている親族150名やその他(野次馬)に届く。狭苦しくしていた人々も一斉に歓喜した。事情を知らない親族以外の者もとりあえず叫んでいた。異様な光景なのだから、他人が興味を持たないほうが無理なのだ。
看護師がコウを大事に抱えて出てきたとき、歓喜は最高潮に達した。元気な男の子ですよ!!と大声で看護師は叫んだ。
「いやぁ、ご無事にご出産できてなによりですなぁ社長!!」
「男の子だそうですよ!!おめでとうございます!!これで安泰ですな!!」
「男の子か?!それならなお素晴らしいことだ!!」
「社長に似て男前なお孫さんだ!!いやー希望に満ち溢れた目をしておる!!」
「よくわからなけどおめでとうございます!!」
「もっとお顔を見せてくださいよ!!――あー元気そうでなにより」
「なんだなんだ?なにかあったのか?」
「もうこの子はわが社の将来設計をお腹の中で決めていたのかもしれませんな」
「おいおい、そうしたら社長の任期が短くなってしまうよ」
「いや、もうワシは息子に半分継いでいるようなもんだからな。とっとと辞めてこの可愛い孫と遊ぶことにするよ」
社長がそう言うと、スーツ姿のおじさんたちがどっと笑い出した。そんな騒がしい中、先ほどの看護師は必死で「お父様はどちらにいらっしゃいますか!!」と叫んでいた。しばらくして少し若く清潔感のある父親が嬉しそうに、そして冷静を装いつつも興奮を隠しきれないといった様子で手を挙げているのを見つけ出し、彼を別室へと案内した。コウはようやく両親と対面することができた。
母親は疲れと安らぎと幸せの目をしてコウを見ていた。先ほどの父親は涙が邪魔して息子の寝顔を見ることができなかった。このようにして、幸せに包まれながらコウは無事に誕生したのであった。
コウの祖父は大手地方銀行の社長であった。その息子、つまりコウの父親はいずれその席に就く予定である。そのため彼は祖父の会社で仕事をしている。現状も、未来も安定した男だ。彼を父親と呼べるコウもまた、安定した未来があるのだ。経済面で不満がないのだから、人生の半分以上は成功と言っていい。幸いにして親族にお金に目敏い人もおらず、皆コウの成長を心から期待して見守った。いずれこの子は父親のように立派になって、この国の未来を創ることになるだろうよ、と何かの集まりのたびにそう言われていた。
なによりコウを一番暖かく見守っていたのは母親であった。彼女は許婚の形で結婚したわけではなかった。むしろ祖父に紹介されるような人ではなかった。なぜなら彼女はコウの祖父の会社で清掃の仕事(アルバイト)をしていたのだ。同じ職場ではあったが、地位が違いすぎた。彼女も自分はこんな立派なところで仕事をしている人と結婚できるわけがないと思っていた。むしろ私は結婚できるかどうかもわからない。それより今はお金が必要だ。たくさん働いて、両親が遺した借金を返済しなければ、私の未来は明るくならない。と、苦しいときは必ず自分に言い聞かせてきた。だから恋愛なんてしている暇はなかった。お金が必要なら、色気でもだしてここの職場と人と結婚しちゃえば?そんな考えは彼女に微塵も芽生えなかった。責任は自分でとりたかったのだ。
コウの父親はそんな彼女の心境を全く知らないで、ただひたすら熱心に掃除をする姿に惚れてしまった。彼は「いつもご苦労様です」と声をかけてみた。真っ赤な顔で。彼女は手を休めることなく黙ってニコリと微笑んだ。その笑顔にますます彼は惚れてしまった。彼の部署の近くのトイレが清掃中になるその時を見計らって、何回も何回も彼女の元へ行き、「いつもご苦労様です」と言いに行った。コウの母親は「変な人だなぁ。挨拶だけ熱心にするなんて」と思っていた。しかし彼女は悪い気はしなかった。唯一声をかけてくれる職場の人なので、嬉しかったのだ。
一方コウの父親は、最初は挨拶するだけで幸せであったが、だんだん苦しくもなってきた。きっとこの恋は叶わないのかもしれない。結局挨拶だけして終わるのかもしれない。やはり俺は父さんに許婚を紹介されて、機械的に結婚「させられる」のかも。将来のためにそれは必要なのかもしれないけど、代わりに俺の夢が「壊される」のかもなぁ。と、彼はそんな悩みを抱えだした。そしてついに我慢できず父親―――コウの祖父、社長―――に相談した。
「父さん、そろそろ結婚を考えているんだけど・・・」
「おう!そういえばお前ももうそんな歳か。そろそろワシの引退も考えないとな」
「いえ、社長はまだまだこの会社を引っ張っていただかなければなりません」
「今は父親として振舞ってよい」
「うん。それで、やはり俺は父さんと同じ時のように、許婚がいるの?」
「・・・・・・え?」
「・・・・・・え?」
「あぁ、いや、許婚、とな?」
「うん。立場上全く考えていないわけじゃないでしょう?」
「・・・全く考えておらん」
「・・・は?」
「えぇ?だって、お前はそれでいいのかい?」
「え?」
「だって、ワシは嫌でたまらなかったぞ」
「えぇ!!じゃあ俺は誰でもいいの?!」
「ふむ・・・誰でも、というわけにはいかんが・・・。まぁお前がまず選ばなければの。話は進まぬ」
「・・・はぁ」
「それに許婚なんて面倒だしの。いちいちこっちが選ぶこともなかろうに。お前が選べ。そして相手に許しをもらえたら家に連れてこい。そしてワシが判断する。なぁに。ワシの目に狂いはない。そんな感じでいいんじゃないかの?」
「・・・はぁ」
「そうかそうか。ついに結婚かぁ・・・はよぅ孫の姿が見たいのぅ・・・」
こうしていとも簡単に彼の悩みは消えた。あっさりと。あとは彼女から許しをもらうだけだった。彼は告白した。その決意を伝えるのに一週間もかかった。ようやく言えた。もうみるみる顔が真っ赤になってきた。汗も出てきた。言われた彼女は悩んでいた。告白されるかもしれないということはなんとなく感じていた。だって一週間前から挙動不審で顔が勝手に真っ赤になって、なにも言わずに出ていくようになったんだもの。もし言われたらどうしよう。普通断るわよね。私にはもっと大事なことをしなければならないもの。もし付き合ったとしても、きっと彼に迷惑をかけるわ。そうよ。浮かれている場合じゃないわ。・・・でもいきなり「結婚してください」とくるとは・・・。普通付き合ってくださいとか、好きですとかが普通じゃないの?これは簡単に流しちゃ悪いわ。でも断らなきゃ・・・どうしよう?
彼女が簡単に断れないのには理由があった。それは、告白した男性が「変わらない」ことだった。相変わらず真っ赤な顔で自分に話しかけているのだ。なぜだか、彼女はそんなところに惹かれた。そして誰かに「甘えたい」という感情がさらに判断を鈍らせた。今まで人並み以上に大変な思いをしてきた。そして我慢してきたのだ。人間でも壁でも木でもいいから、何かに寄りかかりたかった。しかしそんな甘えを自分の言葉で自重してきた。他人の言葉(主に哀れみ)にも耳を傾けず、とにかく仕事をしまくってきた。そして今また現われた「私の敵」しかしその敵を、私は嫌いになれない。
「私にはやることがあるんです。それを終えたら、一緒になりませんか?」
彼女はそう言った。気づいたらそう言っていた。言われた彼は「やること、とは?」と尋ねた。彼女は身の上の話を全部した。そして最後に「だから、私なんかよりも立派な人がいるんじゃないでしょうか・・・」と消えそうな声で言った。彼はしばらく考えたあと、とりあえず家の家族と会ってくれと懇願した。彼は父親を説得してお金を工面してもらおうと思っていた。正直進まない考えではあったが、欲望が彼を抑えきれなかった。彼女は彼の勢いと真っ赤な顔におされて渋々承諾した。そう、会うだけならなんとかなる・・・。
ところがなんとかならなかった。彼女が彼の名前を聞いた時にもしや・・・と疑い、次に父親の名前を聞いた瞬間、気絶しそうになった。まさかこの会社の社長の息子様だったとは・・・私はなんて浅はかだったのだろう。私なんかがこの人と一緒になるの?そんなことが、ありえるの?いや、相手がそれを望んでいる・・・。あれ?こういう人には普通許婚とかがいるんじゃないの?彼女は彼と同じことを考えていた。それに今更の話であった。なぜならその話を聞いたのは、彼と一緒に彼の実家へ行くまさにその時であり、悩んでいたらもう着いていたからである。引き返すとクビになるかもしれない。彼女はあらぬ恐怖を抱えていた。むしろ断ってもクビに・・・?
一方彼の父親は彼女に疑いの念を抱いていた。息子からの彼女の話を聞いたところ、もしかしたら金が目当てなのかもしれない。息子は絶対にそれはない。会えばわかると言っていたが、それは年の功。親父は様々な経験をしているのだ。実際にお金となると人間が変わる者を、何人も見てきたのだ。疑わざるを得ない。
複雑な心境が混ざり合う中、ご対面。
彼女の悩みと彼の親父の疑いはどこかへ吹き飛んだ。話が終わったらなくなっていた。彼女は父親の許婚については全く考えていなかった話や、結構どうでもいいと考えている会社の将来の話、孫は早く見たいなぁ。最初にワシがキャッチボールをするんじゃ!という話を聞いて、すっかり心を許してしまった。この人が社長であることも忘れていた。
そして彼の父親は彼女の姿を見た途端に少しばかり疑惑が消えた。単に好みだったのだ。これは血筋じゃなと心の中で思った。そして彼女の全くもって素晴らしいお願いに、すっかり心を許した。
「社長様、私にはしなければならないことがあります。息子様から伺ったと思いますが、私には借金があるのです。それを返すことが、今私が一番しなければならないことなのです。本当に勝手とは思いますが、すべて払い終えましたら、また改めて伺います。そしてその時は、お父様と呼ばせてください。お願いします!!」
彼の父親は承諾した。彼は父親に工面してもらうよう頼んだが、父親が「彼女の気持ちを考えてみろ!今ここで手助けしてどうする!」と叱った。そして「ちゃんと待っておるから、あんたは焦らずにやることをしなさい。頑張りたまえ」と言って彼女に微笑んだ。その言葉を聞くと彼女は泣いた。そして迷っていた将来を決めた。次の日から二人は同じ将来を夢見ながら仕事に精を出した。ちなみに彼は肩たたきを極めた。
3年後、二人は結婚した。盛大に行われた挙式ではこんなエピソードがあった。それは会場を笑いと幸せの渦で包んだのだった。
「彼と出会った時も、プロポーズの時も、彼に肩たたきをしてもらった時も、場所は男子トイレでした」
さて、そんな二人の下でコウは育った。皆からたくさん可愛がられ、笑顔を向けられ、尊ばれた。コウが立っただけで、親族で宴会があった。コウのお祝いで外出する時には、必ずと言ってよいほど観光バスを一台借りなければならなかった。教育面でも素晴らしかった。甘えたことには母親が徹底的に指導した。ご飯を残すことも、お金を無駄遣いすることも許さなかった。本気で怒ったりもした。しかしそれには必ず愛があった。もちろん最初は自分の立場を気にしていたが、コウの祖母が「もう遠慮なく指導しちゃって。うちの時もそうだったから」と、割と軽く言われ、ならば息子の将来のためにと心を変えた。またコウが興味を持ったことには父親がとことん教えた。スポーツもたくさんやらせた(もちろん最初にやったのは野球であった。おじいちゃんと一緒に)。小学校まではむしろ学業よりスポーツを熱心にやらせた。その結果身体能力はクラスの誰よりも抜きん出ていた。並行して勉学のほうもテストはいつも一桁順位だった。コウは塾には行かなかった。すでに家には父親という立派な家庭教師がいたからだ。中学へ上がっても成績は変わらなかった。だから女子からももてた。友達もたくさんできた。しかも皆いい奴らであった。一緒に馬鹿をやれば、一緒に本気で競い合った。ケンカもした。それはめっぽう弱かった。相手を殴るのがどうしてもできなかったため、受けることしかできなかった。恋もした。こっちから告白すれば、大抵皆付き合ってくれた。しかし別れるのも早かった。もちろんいじめも受けた。「金持ちなんだろ?よこせよコラァ!!」とトイレでボコボコにされた。チクるのがとても怖かったが、友達に相談した。するとある日、またガラの悪い連中にトイレへ連れて行かれそうになったその時、トイレからどこからともなく友達が大勢で連中に襲いかかった。皆が最大限に勇気を振り絞ったバトルの末、負けた。しかも先生にめちゃめちゃ怒られた。親が学校に呼ばれた。もう終わりだと思ったら、学校に来たのはなんとおじいちゃんで、
「弱いお前が悪い!!頭も使えバカモン!!」とコウを一喝し、担任の先生をぶん殴って帰った。コウのおじいちゃんは、学校の伝説となった。
しかし事は解決していない。どうするかと友達と考えていたら、気がついたらいじめはなくなっていた。他の奴にターゲットを変えたのかと思ったが、それも違った。いつのまにか連中はいじめを全くしなくなった。当時は謎で話題にもなったが、高校のときの同窓会でそれは判明した。コウの元彼女が、連中のあられもない姿を曝した写真(どんな写真かは不明。オナニー写真が最有力候補)で奴らに脅しをかけたらしいのだ。元彼女は中学のときは女子の中でボス的存在であった。それに美人であった。身体も細く、大人の風格を漂わせていた。無愛想でもあった。だから彼女を嫌いな人もたくさんいた。しかし、コウにだけに対しては、無愛想はなかった。普通の女の子であった。心を許せる存在であった。だからだろうか、中学生時代に一番長く続いた彼女でもあった。しかし別れてからはそれっきりで、同窓会でも顔を出さない。
コウは第一志望の高校へ楽々合格した。これからは彼の困難の始まりだった。
義務教育期間は、あれをやれ、これをやれと課題を出された。コウはそれをやった。誰よりも早く、確実に。そのたびに認められた。だから喜びを感じた。だから続けた。
しかし、高校からは、自分が課題を見つけて、それに対して真剣に取り組み、結果を得ると皆に認められるのである。コウはなんでもできた。一年のときに陸上部に入った。するとあっさりインターハイに出場できた。皆から誉められた。優勝した。皆から誉められた。雑誌に「あの○○銀行社長の御曹司ランナー!!」として紹介された。皆から誉められた。
コウは誉められても喜ばなくなった。
部活を辞めた。両親からは何も言われなかった。皮肉なことに「雑誌に取り上げられたのが癪にさわったんだろう。これだからマスコミは・・・」と、勘違いをしていた。そんな小さな理由じゃなかった。コウはもう頑張るふりをして結果を得ることに耐えられなかったのだ。
自分は何をしてもできてしまう。それは普通じゃない。勉強もスポーツも、本気を出しても出さなくても「1」をもらえる。誉められる。いつもこれだ。このスパイラル。正直、飽きた。俺の将来も、おそらくこのスパイラルから離れることができないだろう。同じようにして俺がなにかすれば誉められて、気がついたらじいちゃんと同じ立場に就くんだろう。満足感なんて全く得られやしない。子供の頃から同じことを繰り返しているんだから当然だろう。
俺は、何をしなければならないんだろう?
コウは悩んだ。学校も休んでひたすら部屋で悩んだ。時々お手伝いさんか両親かじいちゃんかが部屋の前にやってきてはコン、コンとノックした。それも少し申し訳ない気持ちで無視し続けた。そしてひたすら本を読んだ。なにかヒントがあるかもしれないと思ったのだ。
悩みに悩んだある日、自分が幸せじゃないことに気づいた。コウは幸せについて考えた。しかしなかなか答えは見つからなかった。生まれて始めてのことだった。達成できない!これはやりがいがありそうだ!コウは自分のスパイラルから抜け出すことができる気がした。だから狂うように悩んだ。自暴自棄にもなった。ご飯を食べるのももったいないと思い、喉に何も通さず考え続けた。おかげでかなり痩せた。
「幸せ」ってなんだ?
昔はあったはずなのに、今は持っていないもの。
どこにいった?
ないのなら、探しに行こう。
コウは一人旅を決意した。
両親とじいちゃんはそれを待っていたように、コウに旅館の無料招待券と交通費を渡した。三人はあえて安っぽい旅館を選んだ。行く前にじいちゃんはこう言った。
「ワシも悩んだ。コウも悩んだ。ならあとは動くしかないのぅ!!」
◇
山川 幸(サチ)が生まれた瞬間、誰も喜ばなかった。医者の表情に笑顔はなかった。それもそうだ。今日7人目で、一日寝ていないのだから。いや、理由はそれだはない。看護師にも笑顔はない。むしろ少し顔がこわばっている。そしてまた別の看護師は、サチの父親の元へと向かった。急ぎ足で。
父親のゲンゾウは報告を聞き、一瞬の安堵と永遠の混乱をみせた。涙がこぼれはじめた。それは、悲しみの涙であろう。嬉しくて泣くのなら、笑顔も付随するはずである。しかしゲンゾウの顔は、ベンチに伏したままであった。数分後、看護師に案内され、病室へ走った。
病院の一室。ベッドが一台。そのうえに、人が一人。サチはまた違う部屋へ連れて行かれたらしい。先ほどの医者も、看護師達もいる。皆がある一点を見ている。いや、見守っている。その元凶を。そのせいで皆笑顔になれないのだ。ゲンゾウもそれを見た。
そこには、変わり果てた姿の、サチの母親がいた。
ゲンゾウには、母親が人には見えなかった。まず肌の色がおかしい。それに足の太さもおかしい。なんで右足だけこんなにふくらんでいるんだ?寝ているというより、死んでいるみたいだ。いや、なにか機械のようなものが身体にまとわりついている。ということは、生かされているのか?それなのに、どうして気持ちよさそうに眠っているんだ?寝言なんて決して言わない奴だったのに、さっきからピーピー言っているのはなんだ?
なあ、おい、目を覚ませよ。お前がずっとずっと待ち焦がれていた赤ちゃんが、あっちの部屋で待っているんだぞ?
ゲンゾウがそう声をかけようと一歩踏み出した瞬間、母親の隣にある機械がピーーーーと音をたてた。しばらくすると、それは止んだ。
サチの母親は、娘の命と引き換えに自らの命を絶った。
その瞬間、別室でサチは笑っていた。彼女を抱いている優しそうなおばさんの看護師をずっと見つめながら。きゃっきゃと声を上げながら。
まるで、その看護師を「お母さん」とでも呼ぶように。
医者から母親の臨終時刻を言いわたされ、これからの諸事項を伝えられたゲンゾウは、頭が混乱し、何を言われているのかさっぱりだったため、「トイレに行かせてください」と告げ、足早に向かった。便器に突っ伏し、彼は泣き、わめき、また泣き、咳をし、苦しくなり、吐き、そして泣いた。三十分、これを繰り返した。そして顔を洗い、自分の顔を見つめた。そして、「どうする?」と呟いた。しばらくそのまま動かなかった。
これ以降ゲンゾウは泣くのをやめた。医者の話をきちんと聞いた。感情の余韻は全く残っていなかった。永遠の眠りについた我が妻に別れを告げ、白い布をかぶせた。そして娘と初対面した。ゲンゾウは笑顔でサチを抱いた。「遅くなってごめんよ」と言い、崩れそうなほど柔らかで新鮮なサチの頬をプニっとつついた。サチは笑った。この子はつい先ほどの不幸など知らないのだ。サチの笑顔はその不幸を忘れさせてくれた。だからゲンゾウは、ずっと彼女を見つめていた。見つめられたサチは、父親の髭まみれで、日焼けしたように色黒な肌が特徴の父親の姿を見て安心していた。だから笑い続けていた。
その笑顔の数は、十七歳の現在まで絶えることがなかった。
比例して彼女に不幸がおとずれた。まずは、父親の理性崩壊だった。彼は男手一つで子育てと家事と仕事を見事に両立させた。彼の仕事は土木工事という完全な力仕事であった。その甲斐あって、ゲンゾウの身体はとても丈夫だった。しかし、対して精神面では相当参っていた。それは、しょうがなかった。彼の心は愛する人の死によって致命傷寸前であったからだ。だが壊れなかった。サチの存在があったから。サチの笑顔があったから。毎日仕事から帰っては天使を眺めた。そして自分も笑って傷を癒した。そうやって本当に短い笑顔の日々が続き、それが終わったのはサチが幼稚園を卒業した頃であった。ゲンゾウの心に向けられた銃の引き金を引いたのは近所のおばさんであった。突然家に訪ねてきて、さっちゃんはよくここまで頑張ったねぇと泣き声で話しだし、こう言った。薄ら笑みを浮かべながら。
「ねぇゲンさん。さっちゃんを小学校に行かせる金はあるんかい?」
言われた刹那、ゲンゾウに怒りを超えたものが湧き出てきた。今までの努力をすべて否定された。同情されるほどオレの人生は辛いものだと思われていたのか。頑張ったのはオレだ。サチはオレが創った幸せを謳歌していただけだ。純粋な中で生きてきた。それなのに、目の前にいる鬼畜はサチが頑張ったと言った。それは、サチを汚すことと同義だ。
コノヤロウ・・・!
こんな、些細なことであった。普通だったらこんなこと気にせず流したであろう。そう、もうすでにこの時点でゲンゾウは普通ではなかったのだ。このとき彼の中で何かが爆発した。そして気がついたらサチの目の前でおばさんの首を絞め殺し、気がついたら監獄に放り込まれていた。最もな結末だ。周りから見れば罪のない者を殺したようにしか見えないからだ。こうして突然サチは父親を失い、得たものは周りからの冷たい視線、罵倒、憎悪だった。時が経つにつれ世間はサチの名を変えてしまった。「殺人者の娘」「死神」と。
これが不幸の発端だった。次は学校でのいじめであった。大の大人が罪のない娘をいじめたのだから、子供がしないわけがなかった。小学校から中学校まで、典型的で徹底的ないじめを受けた。内容はあまりに残酷すぎて書けない。数字で表わすと、九年間のうちサチはいじめによって気絶を108回、骨折を11回、半殺しにされかけたのが5回、そして精神的ストレスからくる胃潰瘍を1回経験した。
そして失恋も1回した。これはサチの一番嫌な思い出である。小学校四年生の頃であった。サチはとなりの席の学級委員の男の子に好意を抱いた。彼は皆と違って優しかった。いじめてこなかった。その子の友達はさんざんいじめてきたのだが、男の子はそれをだまって見ているだけであった。それはそれでいじめていることになっていたのだが、実際に振るわれるよりマシだとサチは思っていた。その子に見つめられると、周りからの痛みが半減したのだった。サチはこれが「好き」ということなのかもしれないと気づいた。そしてそういうことに気づけた自分に喜んだ。私、皆と同じじゃないのかな・・・
そう思った三日後、サチは学校でまたいじめを受けていたのだが、今度のは少し変なタイプのものだった。昼休みに突然クラスの女の子のリーダーグループがこんなことを聞いてきた。
「ね、あんたって好きな人いるの?」
サチはいつものように無視をした。答えたって、なくたって、どうせ最後は暴力だと思った。しかし今回は違った。なにか本気で教えてほしいような雰囲気だった。しばらく黙っていると、女の子達はクラスの男の子の名前を適当に挙げ始めた。それにサチは首を横に振って答えた。元々すべての名前に対してそうするつもりだった。早くこんなこと終わって欲しかったから。しかしサチの思いとは裏腹に、普段見てみぬふりをしていた女の子達も単純な興味本位で集まってきた。その集まりになんだなんだと男の子も集まりだした。昼休みにサチの机の周りを皆が囲んでいた。サチはとても怖かった。けど同時になぜか嬉しかった。私のことを、皆が見てくれている・・・。
挙げられた男の子に対してサチが首を振るたび、その男の子は歓喜し、ガッツポーズし、「オレセーーフ♪」とはしゃいだ。それを見て皆が笑った。残酷な行為なのだが、楽しい場となってしまっていた。そして、その時はきた。
「じゃあじゃあ、隣の席のナギト君は?」
このとき一番クラスが注目した。可能性が一番あるからだ。サチは首を振った。
縦に。
クラスが爆発した。実際したわけだはなかったが、そんな音がした。一斉に目を丸くして悲鳴を上げる女の子達。はしゃぎ回ってナギト君をからかう男子達。俯いたまま少し照れて笑うサチ。そして皆に答えを期待され、視線を一斉に浴びたナギト君はこう言った。
「オレやだよ。こんなばっちいの」
クラスの皆が爆笑した。
サチは凍りついた。皆の笑い声が痛かった。暴力よりも。サチは走ってトイレへ逃げて、水分がなくなるほど号泣した。クラスの皆ははしゃぎながらトイレについて行き、彼女の泣き声を聞きまた笑った。そのままサチはそこで一晩を過ごした。
このほかにも、家が放火によって全焼してしまったり、AVスカウトの脂っこいおじさんに強姦されかけたりした。しかしなぜだろう。サチは死んだような目をしなかった。生まれたときと一緒で、優しい目のまま生き、十五年が経った。そしてその歳で「哀れみの眼」を相手に向けることを覚えた。サチの眼が相手の眼と合うと、どんな悪意に満ちた輩でも一瞬怯んでしまう。そしてサチの得意の笑顔を魅せると、相手はたちまち目をそらして敗北してしまう。それは彼女の過去が作り出した賜物だった。おかげで中三はいじめられることがなかった。友達は相変わらずできなかった。
ここまで散々な目にあったサチであったが、自殺の回数は0であった。普通ならこんな苦しみから逃れるために、新たな境地を求めるために自らに殺人を犯すであろう。それは卑怯ともいえる。しかし正しいともいえる。ボロボロな精神のまま生きていくほうが、死ぬよりも辛いかもしれないからだ。サチは生きた。それでも生きた。理由は誰にもわからない。
サチは中学校を卒業し、進学はせずに働くことを選んだ。経済的に進学は困難だからであった。働くといってもこの歳では就職の幅は狭いのは当たり前である。しかし女性の場合顔立ちが整ってさえいれば風俗関係の仕事で楽に稼ぐことも可能だ。(サチの歳では違法だが)。が、サチはそちらの道を選ばなかった。普通に派遣の仕事に二社登録した。平日休日関係なく、仕事があればすぐに働いた。仕事内容も気にせず、引越しや自転車の運搬という男が主にやる力仕事もそつなくこなした。無気力に。まるでロボットのように表情一つ変えることなく働いた。
やがて一年が過ぎた。サチの貯金額は相当な額に達していた。また増えたのは金だけだはなかった。派遣先で友達もできた。幼稚園以来であった。とはいっても正確に友達と呼べる関係なのかは疑問であった。サチはそのことを自負していた。というのも、働き始めてから半年が過ぎた頃。昼飯の休憩時間などで、サチは静かなところで食べたいがためにわざと人気の少ない場所に移動するのだが、その場所に誰かしらついて行き、勝手に話かけ始めるのだ。性別関係なく、しかも誰もがサチの名前を知っており、まるで初対面ではないような口ぶりで接してくるのであった。わけがわからないサチはどうして私の名前を知っているのかを聞くと、相手は必ず目を丸くして
「え?君ここの派遣会社ではかなり有名だよ。知らない人いないんじゃないかな。いつもしっかり働いてるんでしょ?偉いよ、ホントに。ところで名前教えてよ」
と答えた。中には「マスコット的な?存在になってるよ。だってなんか可愛らしいもん」と笑って言う人もいた。ただそれだけのことがきっかけで、そこからちょくちょく話をする程度だったから、「友達」とは正確に思っていなかったのだ。それに近い存在、「知り合い」ぐらいにしかサチは考えていなかった。だが、確かなことは、サチの努力が人々に影響を与えていたということである。本人は全く周りを見ずにひたすら与えられた仕事をこなしていたため、気づかなかった。回りに興味がなかったというのもあった。
サチはあることにしか目がいってなかったからだ。
それは、高校の頃ネットフェで寝泊りした時に偶然ある動画サイトで見た「旅の記録」がそもそものきっかけであった。それは動画投稿者が日本一周しながら各地の名所などを撮影し、そのサイトにUPしているものであった。サチはそれに魅せられた。一晩かけて「旅の記録」の動画を全部見た。そして決めた。
これでいいや。これがしたい。お金貯めて行こう。
旅の資金を集めるために、サチは一年間猛働きしたのだ。その中でサチは一つのことを決めると周りが見えなくなる自分の性格を、身をもって知った。さっきの話しかけられたことはその一つである。また、労働中に何回か意識が飛んだことも、その一つである。
そんなサチを、周りは哀れみの眼で見る人もいた。年を越した頃のことだ。三箇日の次の日からサチはさっそく働いた。年明け最初の仕事の現場は廃品回収工場で、五十を過ぎたおばちゃん一人と一緒に現場へ赴いた。「まぁ、年明けなんでゆっくりやってください。午後も早めに切り上げますんで」と現場のおじさんに言われ、耳の感覚がなくなるほど寒い外で、二人はお互いのことを少しずつ話しながら、廃品に付いているシールを剥がした。サチが一通り自分の過去を話すと、おばちゃんは静かに泣いた。そして「あなたも大変ね。可愛そうに・・・」と言った。サチは後悔した。余計なことをべらべらと喋ってしまった自分が少し嫌になり、それきりおばちゃんの話を聞くことだけにした。
同情されるのは、なんの得もないから嫌だ。
お昼の時間になって、サチはおばちゃんから自家製のおにぎりをもらった。また泣きそうな目で「頑張ってね・・・」と言われた。また同情されて嫌になった。しかし、嬉しさのほうが上だった。
外は、幻想的な雪が降り始め、きっと痛いほど、そして悲しくなるほど寒そうなのに、おにぎりはシャケのしょっぱさと海苔の香りがとても懐かしくておいしくて、待合室はストーブがきいてとても暖かくて・・・
私の周りは、なんて暖かいんだろう。
私は、幸せなんだ。じゃあ、同情とか、可愛そうとか、なんでみんなそう言うの?
冬、春が過ぎ、七月。
少々の衣類と、少々の食料と、数冊の本と、必要最低限の清潔用品と、寝袋一式と、たくさんのお金を持って、サチは旅に出た。
◇
夏。
木々は力強い。濃い緑が優しく揺れ、歌う。それに合わせて張り付いた蝉達が不器用に叫ぶ。風は蒼く、最初から自由なのだと言わんばかりに遊び踊る。空は、ただどこまでも気ままに青い。
ほとんどの人間は、それらに興味を持たない。
◇
涼しい。いつまでも、この海と川の流れに耳を澄ましていたい。空気も、おいしい。コンクリートジャングル日本と言われているが、風情も残っているんだな。外は、世界は、やはり広い。僕は本当に狭い空間で生きていたんだなぁ・・・。
よし、もうしばらく、しばらく此処にいようか
一人旅。それを今僕はしている。なんか、こう、退屈だ。おじいさんから資金は頂いたから金欠はありえないし、道に迷ったりとやたらと困ったら、ネットカフェに行けばすぐに解決する。しかもそこで一晩を過ごせるし、食事も出てくる。おまけになにかとおいしいかったりする。すごい時代だ。本当に。
しかし便利な世の中のせいで、僕は今暇を持て余している。この矛盾。旅といえば人々との素晴らしい出会いが醍醐味と思ったが、それも今のところない。しょうがないから自分から声をかけてみても、相手は疑惑の目で僕と話をしているのが丸見えだ。冗談を言っても情のない笑いを返してくる。結局他人のままで別れてしまい、五分後には相手の顔さえ忘れる。フレンドリーに声をかけてくれる人もいるが、そいつはただのチンピラだったりする。最終的には目的は僕ではなくて金だったのだ。
極端な時代だ。本当に。
っとこんな感じで自問自答を僕は海相手にしている。虚しい。もうどれくらい時間が経っただろうか。太陽のせいで、頭が熱い。
なんかもう、忘れたい過去とかも思い出せないな。いいことだけど。それを求めている自分もいて、それが自然なわけで、不幸ありきの幸なこって・・・
ん?
子供?女の子か。こんな浜辺に一人でか。なんか怪しいなぁ。
あいや、女性か。
僕のちょっと左先に、その子はいた。波打ち際で、右手に木の棒をつかみながら波を切っている。服装は少し幼いというか、地味である。けど顔は大人の雰囲気がある。髪は肩までの長さ。中学の元カノを思い出した。くるぶしまで海水が浸かっているようだ。その子はずっと笑顔で海と戯れている。
正直、気持ち悪い。
が、惹かれる。
その人は美人であったから。
少々の勇気を振り絞って話しかけようとした。僕の求めていた「出会い」の機会が、今訪れた。
「こ、こんにち・・・」
「きゃっ」
相手は気づかなかったようだ。
「あ、ごめんなさい。濡れてしまいましたか?」
「あ、大丈夫です・・・」
「すいません」
「いえ、大丈夫です」
・・・
「えぇと、暑いですね」
「そうですね」
「一人で何しているんですか?」
「うん。ちょっと悩みが」
「そうですか。僕も、同じようなものです」
「あなたは?」
「あ、僕はなんというか、旅を」
「へぇ。それじゃ私と同じですね」
「そうなんですか」
「あの・・・高校生ですか?」
「あ、はい高二です。あなたもですか?」
「それも同じね」
やっと笑顔を見せた。少し安心した。変な人ではなさそうだ。
「あなたは・・・というか、名前聞いてもいいですか?」
彼女は砂に名前を書いた。
僕の名前を。
「えぇ!?」
「えっ」女性は静かに驚いた。
「えっ・・・えーとえーと、あれ?」
「あの・・・何か?」
「ヤマカワ・・・コウ?」
「いえ、サチです」笑った。
しばしの混乱後、ようやくたった今ミラクルが起きたことを知った。
まさか、同姓同名で、歳も、というか、冗談で聞いた生年月日も、ここにいる目的も同じだとは。
しかし女性は・・・サチさんはあまり驚いた様子はなかった。それよりもさっき言っていた悩みによって今が見えていないようだ。海を、いやその先の遠くを眺めたままだ。この後五分ほどお互いについて話をした。といってもほとんど僕が一方的に話し手で、サチさんは聞き手だった。潮の香りの中、ひぐらしの声を遠くに、太陽は色を変え、夕日へと姿を変え始めた。それを、サチさんは相変わらずずっと眺めていた。
「綺麗」ポツリと呟いた。
「ほんと、馬鹿みたい」またポツリ。
僕は話題を変えようとした。
「地平線が何故丸く見えるか知ってる?」
「地球が丸いからでしょ」視線を変えないまま答えた。
「それってね、実はダウトなんだ。地球じゃなくて、目が丸いからそう見えてしまうんだ。目の錯覚によって、遠くの真っ直ぐな線も間違って認識してしまう。まあこれはサチさんには関係ないか」
「サチでいいよ。コウ君」少し笑った。
「じゃ、サチもコウと呼んでいいよ」やっと距離が近くなった気がする。
「頭、いいんだね。というか、とても恵まれて育った感じがする」
鋭い。が、違う。
「だいたい当たってるかも。サチも、そんな感じがするな。名前からして」
「それは違うわ」力を込めて言われた。ちょっとびびった。
「けど、名前の通り、幸せに育った・・・かも」
夕日が今、沈んだ。夏夜の時間だ。僕はもう少し話がしたかった。サチは何かを秘めているはずだ。だから惹かれた。これは、恋とは違う。
僕が答えを見つけるために、話がしたかった。
けど、サチは僕を見ていないと思う。何かを探しているから。だから僕のことを邪魔に思っているかもしれない。だから持っていた携帯食品とハンカチをあげ、このまま別れようとした。不本意だが、そうしようとした。
「もう少し、話をしない?」
サチは僕の背中にそう言った。
偶然にも、今日はこの村の公民館でお祭りがある。ひぐらしの変わりに祭り太鼓が聞こえるようになった。僕らはその音を頼りに公民館へと場所を変えた。折りたたみ式のテーブルが外に並べられており、そこに名も知らぬ人々がビールを片手に広場を見ながら盛り上がっている。広場には大きな太鼓が一つあり、伝統的なお面をかぶった人が撥を持ちながら踊っている。子供達はそんなのを見向きもせずにあちこちではしゃいでいる。
僕とサチは公民館の近くのベンチで飲み物を飲みながら話の続きをした。今度はサチが話題をふってきた。
「ここに来る前にね、お父さんがいる刑務所に行ってきたんだ」
「えっ、刑務所?」
「うん。私が小さい頃に、罪を犯したらしい。私はよく覚えていないけど」
恵まれて育ったように見えると言った浅はかな自分に腹が立った。そんな、じゃあこの人は普通に育ったはずないじゃないか。むしろ、世間的には・・・
「それでね」話は続いた。
「いきなりは無理だったけど、きちんと面会できたの。なんかお父さんは髭とかもじゃもじゃで、やっぱり私の中にいるお父さんとは全く違っていた。ま、当たり前だけどね。お父さんはずっと泣きっぱなしで『すまん、すまん』ってずっと泣きながらそう言ってた。一体誰に謝っていたのかしらね」サチは少し鬱陶しそうに呟いた。
刑務所って…罪を犯したってことだろう。その、サチのお父さんが。当たり前か。そうなんだけど、どうしても受け入れられない。こんな静かな人の親が罪を…
って、何を言っているんだ僕は。彼女と殺人は関係ないじゃないか。…なに勝手に決め付けているんだ…もう…
浅はかだ。僕は本当に未熟だ。僕自身が勝手に決め付けられることを嫌がってたのに、それを他人にしようだなんて…
「ねえ。大丈夫?」僕は相当思いつめていたらしい。サチが僕を見ていた。
「あ、うん。少し驚いちゃった。ごめん」
「ううん。いきなりそんなことを話されてはそうなるよ」
「なんで、それを僕に?」
「え?」
「なんで、そんなことを僕に聞いたの?」
「…別に。ただなんとなく…かな」
「…あのさ、失礼なことを聞くかもしれないけど、君は、何かを期待している?」
「…」
しばらくの間、サチは黙った。俯きながら、何かを考えているようだった。僕は彼女が怒ったのかと思ったが、そのような様子は見受けられなかった。僕は答えを待った。
遠くから聞こえるひぐらしの音が聞こえなくなった。
「うん…。そうなのかもしれない」俯きながらゆっくりと答えた。
「じゃあ、それは、何?」僕は正直恐る恐る聞いた。僕は答えを正直聞きたくなかった。なんとなくわかってしまったからだ。
蝉の音が聞こえなくなった。
「貴方は、幸せ?」
一瞬、音が消えた。
…え?
今、なんて言った?
アナタハ、シアワセ?
同情とか、慰めとか、そういうものを求めていたんじゃないのか?この人は。
いや、それよりも…
何故そんなことを僕に聞く?
何故、僕の旅の目的を、知っている…?
鳥肌が立った。この人は、僕の心を見ている気がした。それが怖くなった。冷静さを取り戻したときにはすでにすべての音が聞こえていた。
サチは僕をまっすぐ見つめていた。その表情は、一瞬天使なんじゃないかと思ったほど綺麗だった。僕は我慢できずに俯いた。顔は赤かった。心臓の音が聞こえた。この感覚はそう、陸上の試合でスタート地点に着くときと同じような感覚だ。緊張によって、意志はあまりないのに無意識に体が動いている。そんな感覚だ。
「大丈夫?」サチの少し大きい声に気づいて、その感覚はゆっくりと解かれた。
「…あ、うん。ごめん」
「さっきから私が何か言うたびに止まってるけど、なんか悪いことでも言った?」
「いや、少し驚いて」
「また?…ふふっ。なんかコウっておもしろいね」
僕は黙っているしかなかった。
「で?幸せ?」サチは繰り返し聞いてきた。
…
…話してみようか。
「ん、いやあ、まあ、それを確かめるために旅をしているようなものなんだよね。実は」
隠す必要もないし、お互い様だろうと思って、僕はそこから自分のこれまでのことや、自分が悩んでいることや、それを解決するために今自分は旅をしていることなどを一気に話した。話を聞いているときのサチは穏やかな表情をしていた。時間を忘れ、自分でもびっくりするほどべらべらと話した。サチなら答えを教えてくれるかもしれない。そう期待していたからだと思う。
一通り話し終えると、喉が渇いた。屋台でなにか飲み物を買ってくると言ってベンチから腰をあげようとしたとき、目の前に見知らぬおばあさんがいた。腰がほぼ90度に曲がっていて、両手で杖にすがっていた。僕と目が合うとにこりとして、震えた手で僕にジュースを渡した。一つだけだった。おばあさんはしばらくその場に黙って僕をまじまじと見つめた。戸惑いながらも「ありがとうございます」と言うと、小さな声で
「いずれ、また」と言ってゆっくりと立ち去っていった。
…
「なんか、もらっちゃったよ」苦笑いしながら僕が言うと、サチは「そういうものなのよ」と微笑んだ。私は買いに行くわと屋台に行こうとしたので、僕はおばあさんからもらったジュースを渡そうとした。しかし彼女は頑なにそれを断った。結局彼女は「私はそれを絶対に飲むことができないの。絶対にね」さらりとそう告げて、屋台に向かった。もらったジュースは炭酸飲料だった。だから炭酸は飲めない人なのだろうと、僕は無理やり納得した。
祭囃子と太鼓の音が大きくなってきた。闇はだんだんとこの町を支配しだした。僕とサチは一緒にジュースを飲んだ。
「さっきの話の続きだけど」一息いれたあと、サチが話し出した。
「正直、幸せが何処にあるかなんて、私からは言えないわ。ちゃんと存在はすると思うわ。けどね、私が此処にあると言っても、それが確定事項だとは限らない。言ってしまえば、おそらくコウはそれのみが答えと断定してしまうと思うの。少し、焦っているようだし。私は答えの幅を狭めたくない。つまり、幸せの基準なんて、人それぞれってことかな」
まるで僕の心を見透かしながらの言葉に思えた。僕は「なるほど・・・」とだけ答えた。
「なんだろう…とにかく実感を得る答えが欲しいのかも」僕は続けた。
「よく『〜をしている時が一番幸せ』とか言うよね。あれって、『良い事』のみが幸せみたいな言い方でしょ。それって、すごく狭い見識な気がする。もっと違うところにあると思うんだ。なんていうか、もっと根本的なところに。そこを幸せと名づけるべきなんじゃないのかなぁって。これまで旅をしてきたなかで、そう思えるようになった。これが合っているかどうかわからないけど。でもさっきサチが言ったように、基準は人それぞれだろう?答えは一つだけど、視点は人の数だけあると思う。だから答までの道は、作り出さなきゃいけないから、信じなければ始まらないと思う」
正直自分でも何が言いたいのかわからなかったが、伝えたいことは言えたようなきがした。サチは真剣に耳を傾けてくれた。そして答えた。
「幸せを感じるにはさ、必ず幸せを所有することができる実体が必要よね。それって、つまり私やコウのことでしょ。人間が必要ってこと。つまり人間がいなければ幸せという存在もなかった。当たり前のことを言ってるけど、これって大事だと思うの。人間がいなければ存在しないなら、幸せは人間にしかわからないものじゃない」
「けど、今のレヴェルじゃわからないかもしれない。人間は日々進化していることが前提なら、もう少し先になってからじゃないとわからないかもしれない。でもね、現代からの視点だと、哲学的な概念って、このさきあまり変らないかもしれない。ほら、今進歩してるのは、科学とかそうゆう、どっちかと言うと理系のほうでしょ?」
何を言いたいのかまたわからなくなってきてしまった。
「なんていうのかな。道具だけがどんどん肥大化して、化け物になってしまっている気がする。一方それを扱う人間、僕達は変わっていないから、それらにあたふたしている。興奮している人もいる。全体としては混乱してる。今って、そんな時代な気がする。その中でこんな単純な『幸せってなにか』なんてのを見つけようとするなんて、中世の偉人達に情けないって言われそうかも。いや、絶対言われるよ」
「それなのに、探すの?」
「うん。なんか、とにかくすっきりしないのって嫌なんだ。それに完全な答えを求めようとはしてない。自分で見つけて、とにかく結論づけたいっていうほうが強い。俺のお父さんが言ってたんだけどね、『悩むことを恥じるな。むしろ謳歌しろ』とかなんとか。悩んで、結論を出して、それをまた否定する事実に打ちのめされて悩めって。ずーっと一箇所で立ち止まっていても無駄だし、先を生きていけないぞ。とも言ってた」
「そう…」サチは優しく微笑んだ。そして、
「でも、ちょっと焦ったほうがいいかも」そう少し困った顔で言った。
「え?どうして?」
「…」答えない。言葉を選んでいるようだった。
「いずれ、わかるわ」
それっきりお互いに沈黙し、サチとの間になにか冷たい空気が流れているような気がした。彼女は、不思議だ。見た目はとても小さいけれど、存在感は大きい。雰囲気からなのか。それに、さっきから時々不可解なことを言う。
それは、僕を見えない声で呼んでいる感覚と似ていた。
間を埋めるつもりで話しかけようとしたが、躊躇した。何を言えばいいかわからなかった。言ってはいけない気がした。だから、僕は思索にふけることにした。今になって気づいたが、さっきサチに自分の考えをバーッと言ってみたことで、考えがまとまってきた。自分が求めているのがなにかが明確になってきた。余計な靄がなくなって、すっきりした気持ちにさせてくれた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。僕は腕時計を持っていなかったので、正確な時間はわからなかったが、いまだに背中からは太鼓の音、子供達のはしゃぎ声、焼きそばの香りがするので、さほど過ぎてはいないと認識した。
…
「ヒント、あげるね」不意に、サチが小さな声で呟いた。
――あらゆる物には、核、根源がある。それは、人間の眼だけでは見えないもの。
幸せも、そんなものだと思うわ――
彼女は立ち上がり、「じゃ、また」と言って去っていった。
僕が彼女の言ったことを理解しないまま呼び止めようとすると、その女性は振り返り、最後にまた不可解な言葉を残した。
「…お祭りは、とっくに終わっているわよ」
そしてサチは夜の闇へと消えた。
「…なんだったんだ?一体…」
僕の呟きは、祭太鼓の音に消えた。
◇6.
コウは海辺へと向かった。そこはサチと今日出会った場所だった。
屋台で買った焼きそばとジュースを手に、寝巻きを敷いて堤防に座る。コウの目の前には段々と整ってコンクリートが下へと積まれており、海へと繋がる。彼の背中にはこの田舎風景には不自然な、舗装された綺麗な道路があり、車は滅多に通らない。街灯もほとんどない。そのかわりに、家々の窓から漏れる明かりと、自分で用意したランプががあり、闇を薄めている。
コウは先ほどサチから言われたことをゆっくりと思い出していた。
「核と、幸せは…」
海に向かってそうぼやきながら、学校の理科の授業を思い出していた。顕微鏡から見える無数の玉は、実は目の錯覚、なのではないかと疑っていたことがあった。それほどコウにとっては新鮮な発見だった。
――核とは、源。あらゆる物質に存在する根源。それがないものはない。少なくとも自然界には――僕の体にもある。細胞のカタマリが僕だから――ミエナイ、モノ――
幸せというものも、根源…
なんの?
幸せは、人間にしかわからない…サチがそう言ってた。
じゃあ、人間の、か。
人間の、根源は、幸せ…
でも、人間は存在しなければ幸せを認識できない。
…ソンザイ?
…
「在る」ということが、幸せということか…?
「在る」ならば「幸せ」を得るのではなく…
「在る」=「幸せ」ということか。
…
コウは、なんとなくだが、サチに出会って幸せについて納得した。理解までとはいかなかった。わかったと喜ぶまでとはいかなかった。しかし、何かを掴んだことは確かだった。一歩前進した。答えはもうすぐそこなのかもしれない。
幸せとは、根源。そこから生まれたものが、現実。喜怒哀楽はすべて幸せあってのこと。「喜」や「楽」だけがその結果ではない。悲しみにくれることも、絶望の沼に吸い込まれることも、幸せあってのこと。いずれにせよ、感情を実感できる。それは、存在するからだ。
なにもなければ、なにも実感できない。自分というものがないのなら、自分を表現することもできない。元がないなら当然だ。
そして、幸せは、自然がなければ生まれなかったのだ。
コウは悩んだあげく、結局こんなくだらなくて間違いだらけの解答を導き出した。本人は全く自覚をしていないが。
でも、こんなもんだ。青春なんて。
コウはようやく心細くなり、家に帰りたいと、初めてそう思うようになった。
「帰ろうかな…」少し鬱になったあげく、
「寝よう…」寝巻きの中にうずくまることにした。
…
真っ白な、世界。
そこに僕ははいる。
僕は夢を見ているのかと思った。
きれいな、白。
そこで僕は横になってうずくまっている。
ああ、なんだか、
懐かしい感覚がする。
向こうから、何かがやってくる。
ああ、サチか。
どうしてここに?
サチは笑顔のまま、僕と同じように横になってうずくまる。
僕と、向かい合わせになって。
――17年間…本当に…短かったね……
でも、やっと一緒になれるから、嬉しいかな…
なにを言っているの?サチ…
あなたはまず、約束を思い出さなければならないね…
約束?
うん…17年前の、約束。ここは、それを交わした場所…
…わからないよ…けど、なんか、とても懐かしい感じがする…
いいの。それは、いいことだから。忘れるくらい、楽しかったってことでしょ?大丈夫。私が、その約束を話すね…――
――私とあなたは、ここで出会った。あのときはどこかわからなかったけど、今ならわかる…私達はそこから外の世界に出る予定だったの。けどね、出口はとても狭かった…二人共出ることはできなかったの。私達がいた世界は、どちらか一方が出て行くようにと告げた。そうしないと、この世界が壊れるからって…
でも、私達はできなかった。二人で外の世界に行きたかった。仲がよかったってわけじゃないけど、ずっと一緒に「居た」から…多分、そういう運命だったの…
出口はいつか閉まるから決断をしなければならないと、その世界は告げた。私達は悩んだ。一緒がよかったから…
すると、その世界は、一人は外の世界へ、もう一人は別の世界へ行くことを提案した。
私達は、この世界と一緒に壊れますと言った。けど、それは駄目だと言われた。それはこの世界を否定することだと、怒られた…
私達は結局、その世界の言うとおりにした。とても悲しかった。けど、そうするしかなかった。あなたは「君が外の世界に行って」と言ってくれた…私が離れたくないと言うと、あなたは「また会えるから、その時に外の世界を教えて」と言ってけれた…あなたが、そう言ってくれたの――
…オモイ…ダシ…タ……
そうだ、そして僕はその世界に別の世界とはどこにあるの?と聞いたのだ。
するとその世界は、「自分で作ればいい」と告げた…
…そうか…僕らは……双子だったんだ……
…そうか…ここは……始まりの世界だ……
体中に、暖かさがやってくる。
温もりに、包まれる。
…聞こえる。
ドクン、ドクンという、命の鼓動が…
――…思い出した?
うん…ありがとう…僕らは、戻ってきたんだね…
そう、17年ぶりの、再会…
約束の、とき…
うん…
…じゃあ、僕らは、これからずっと一緒だね…
…そうね、もう私達は、永遠だもの…
ずっと、一緒…
そうね…
こうして、一緒にうずくまって…
うん…
互いを、見つめ合う…
うん…
僕らの、約束を、果たそうか…
うん…
…じゃあ、聞かせて。お話の…続きを…
はい…――
そう、17年前、僕らは約束をした
私は、「現実」という外の世界へ
僕は、「理想」という創られた世界へ
お互い別々になってしまうけれど
また、会おう
始まりの世界で
お互いに行った世界をお話しよう
そして、互いの存在を、確認するんだ
互いの幸せを、謳歌するんだ
そう
僕は
私は
ココニイル、と…
◇エピローグ
とある田舎町にて。
「ねえ聞いた?昨日の夜の話」
「ああ私もそれを話そうと思っていたところなのよ〜」
「ねえ…朝になってパトカーやら救急車やらウーウー鳴ってて…」
「そうそう…なんでもあそこの浜辺に死体があったっていう…」
「殺人事件かしら…」
「さぁねぇ…なんでも眠るように死んでいたらしいわよ…」
「怖いわね〜。でも、この町で起こるなんて…滅多にないわよねえ…」
「村長さんは十年ぶりの事件が起きたとか言ってたわよ」
「あらあらそんなに珍しいの?」
「そうよ…だから絶対に殺人なんかじゃないって言ってたわ」
「そんなことする人、此処にはいないもんねぇ…」
「そうよ〜。それに亡くなった方はこの町の人じゃないし…それに、昨日の祭りにも目撃されていない人らしいわよ…」
「あら〜…」
「それに、まだ年端もいかない女の子だったらしいし…」
「ねえ…ホント可哀想に…」
17年前、とある病院にて
「お疲れ〜」
「お疲れ様で〜す」
「今日はもうあがり?」
「はい。夜勤に備えて帰って即効で寝てきます」
「そうねぇしっかりパワーためときなさい」
「は〜い。あ、そういえば先輩。昨日産婦人科で双子の出産があったそうですよ」
「あら、久しぶりね。一卵性?二卵性?」
「それがすごいんですよ。異性一卵性だったんですって」
「え!?それってものすっごいことじゃない!?ニュースになるわよっ!」
「…なるはずでしたが…」
「…なるはず『でした』?」
「あ、はい…実は生まれる前にお腹の中で、既に男の子は亡くなっていたらしいんです」
「あら…それは…気の毒にね……女の子のほうは?」
「無事出産されたようです。ですけど…」
「……ターナー?」
「…かもしれません…」
「そう…本当に、気の毒に……」
」
完結
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「アクティ文芸部」 連載式 著 四年生:ぱねぇw (会計) |
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目次
第一章 夏の昼の序曲
第二章 夏の夜の変奏曲
第三章 夏の朝の鎮魂曲
第四章 夏の黄昏の指揮者
登場人物
T大学 アクティ文芸部
佐々木 剛太…………………T大学四年
上屋敷 了……………………T大学四年
碇 凉道………………………T大学三年
清浄 満芽……………………T大学三年
青山 静………………………T大学三年
藤田 美早……………………T大学三年
小道 鳴………………………T大学二年
六澤 瑠璃……………………T大学二年
東 雀…………………………T大学二年
新谷 瑞樹……………………T大学一年
歌川 風子……………………T大学一年
飯塚 花子……………………T大学一年
鏡 鏡子………………………T大学一年
その他
和久田…………………………富士見荘管理人
第一幕 夏の昼の序曲
1
「おーい、そこのブサメン諸君! 早くしないと置いていくぞぉー」
清浄満芽(ショウジョウミツメ)が大きく手を振り回しながら大声で呼びかける。彼女の後方二十から三十メートルの位置には数名の学生の姿が見える。
「先輩……聞きましたか? ブサメン諸君だそうですよ」
碇凉道(イカリスズミチ)は額に汗を浮かべながら前を歩く佐々木剛太(ササキゴウタ)に話しかける。
「……へ?」
「だから、清浄満芽ですよ」
「ああ、あいつな……早いな。やっぱり体積の問題なのか……いや、でもちゃんと朝ごはんは食べたわけだし……エネルギー的にはまだ動けるはずだし……」
佐々木剛太は体が大きい、それ故に長時間の運動は得意とするところではない。
「あの……先輩。大丈夫ですか?」碇が佐々木のことを心配する。
「……大丈夫? もちろんさ。俺は三十メートルあるロボットじゃないからな。この地球上では駆動可能な足腰を所有しているはずだから……」
碇の方すら振り向かずに良く分からないことを口走っているところをみると、とても大丈夫ではなさそうだ。佐々木の背中からは湯気すら立ち上りそうな勢いだ。
碇は後方を見渡す。
前を歩く清浄満芽、佐々木剛太を含め計十三名。T大学、アクティ文芸部である。
場所は東京都某山道。
彼等は山登りをしているのではなく、合宿所へ向かっている途中なのである。
彼らの所属するアクティ文芸部は、先代の意向により常にアクティブであることが義務付けられている。
『文芸は無から成らず』
文章を作るにしても経験や知識というものがなくては決して作り出すことはできない。何らかの経験や知識があり、それらを自らの中で組み替え創造して初めて作品を作ることができる。
このサークルを立ち上げた先代は、これらの意図を含んだ形でアクティ文芸部という名前がついている。
そういった経緯から夏合宿所である富士見山荘へ足を運んでいる訳である。
文字通り足で。
碇は暑さと疲労で、しゃわしゃわとそこらじゅうから響く蝉達の声も気にならなくなってきた。
早朝、六時に新宿駅に集合したアクティ文芸部。
約二名、三年の青山静(アオヤマシズカ)と二年の小道鳴(コミチナル)が遅刻したが、全員無事に集まり、出発した。
電車で約二時間、バスで三十分。
窓の外は一時間弱で東京というイメージからはかけ離れた田舎風景に入れ替わっていた。
バスを降りた場所は視界に緑が入らないことがないほどになっていた。そこで現部長である佐々木が大声で山を指差し「これから富士見荘まで登るぞ!」と部員へ向けて一括した。
合宿の企画をしたのは四年の佐々木剛太、三年の碇凉道と清浄満芽なので三人は驚きもしなかったが、部員たちは驚いた。合宿にあたり「合宿のしおり」なんてものも作ってみたがそこには詳細は書かれていないのである。決して面倒くさかった訳ではない。
そこから歩き始めて既に二時間が経過している。
碇の想像以上に富士見荘までの道のりは厳しいものだと感じていた。帰りもこの道を歩くのかと思うと嫌気がさしてくる。
この気温、湿気、太陽光、紫外線、標高による僅かな酸素不足。いや、この無風こそが最大の敵といえるかもしれない。
「碇、あとどのくらいで着くんだよ」後方を歩く三年の青山静(アオヤマシズカ)だ。
「あと、少しのはずだよ。皆頑張って!」
「先輩、休憩を要求します」二年の東雀(アズマスズメ)。
「もう最悪! ねえ静、飲み物ない?」青山の彼女で三年の藤田美早(フジタミサキ)が甘えた声を出す。
「この日は、さようなら。朽ちる前に明日へ……」麦藁帽子を被った背の高い上屋敷了(カミヤシキリョウ)四年生が口を開く。
「何言ってるんですか了先輩? もう少しですから頑張ってくださいよ」碇は足場が悪いので手を差し伸べる。
了は一瞬迷い手を握った。
「碇! おーい、富士見荘ってあれじゃないか」
満芽が指差す先にコテージのような外見の建築物の屋根の先が見える。
緑色の屋根。
確か先輩と三人で話し合っている時に先輩が持ってきた写真に映っていた建物も屋根が緑だった。
「おお、やっと着いたかぁ……」佐々木はもはや消え入りそうな野太い声をもらす。
「光明ならぬ光緑、素敵だ」上屋敷了が言う。
2
山道を抜けると、砂利が敷かれた平地に出た。
近くで見ると意外と大きめの建物であることがわかる。
外壁やベランダまで木でできている。入り口はちょうど真ん中にあり、右にはデッキが建物の側面部にまで続いている。左には窓が二つ、恐らく二部屋そこにあるのだろう。物干し竿があり、洗濯物太陽光を反射している。この天気なら一時間で乾くかもしれない。
二階は一続きになっているバルコニーが見える。窓の数は四つ。
建物正面のスペースは駐車場も兼ねているようである。恐らく砂利道を進んだところにちゃんとした道路に続いているのだろう。
アクティ文芸部が上ってきた山道はここから山頂にまで続いているのだろうか。
清浄満芽はそんなことを頭の隅で考えながら、富士見荘の入り口傍に荷物を投げ置いた。
「うーん」大きく伸びをする。「気持ちいいわね。この天気、この環境、まさにローカル!」
「ローカル? 何言ってんだよ」碇も重そうな荷物を地面に置いて、その場に座り込んだ。「疲れたぁ」
山道からの出口から残りの部員たちもぞろぞろと現われた。
「ほら、なんていうの? この田舎っぽい感じとか原始的な感じローカルじゃなかったっけ?」人差し指をくるくると回しながら言う。
これは彼女の癖である。何か考え事をする時よくこの動作をする。
「そりゃ違うだろ。ローカルって地方とか地域とかだろ。俺でも分かるわ、そのくらい……」首を上げ満芽を見上げる。
満芽は頬を膨らませる。
「うるさいわね、英単語なんて大学受験のとき以来やってないんだから覚えているわけないでしょ? このがり勉」
がり勉っていつの時代だよ、と碇は思う。
「なんだろ……プリミティブとかじゃないか?」
「プリミティブ?」満芽が聞き返す。
「……プリミティブ、原始的、未開」
ようやく到着したといった感じで麦藁帽子を被った上屋敷了が代わりに答える。
「おお! さすが了先輩」満芽が胸の前で手を合わせる。「なるほど、プリミティブね。勉強になったわ。今度から使うようにする」
気がつけば入り口の前に皆座り込んでいた。
「よーし、全員いるか?」入り口の階段に座ったままで佐々木剛太が号令をかける。
点呼も終わり全員の確認が取れ、佐々木はチェックインをしてくると言い建物の中に入っていった。
清浄満芽が鼻歌を歌いながらカバンのなかを探っている。
「お前、何でそんなに元気なんだよ……」呆れたように碇が聞く。
碇凉道と清浄満芽は大学の一年のときからこのサークルで一緒ということもあり、気心の知れた仲である。
「満芽さんは武道やってるからね。そのおかげで僕らとは体力が違うんだよ」
そう涼しげな顔で言ったのは青山静である。
彼も一年の頃からサークルに所属する仲である。
「そういうお前も疲れてなさそうだな」
「まあね、一応普段から運動はしている方だし……碇とは違うのさ」青山はにやりと口元を上げる。
「何言ってるのよ、静君。私は武道やってなくたってこのくらい平気なつもりよ? 女の子はまだしも他の男連中がだらしなさ過ぎるのよ」満芽は快活に述べ、力のある目で碇を見る。
「おいおい、それ差別じゃないか? それに俺と佐々木先輩はサークルの荷物持ってたんだし……」
「私に任せて頂ければ荷物くらいなんてことありませんでしたのに」
横から二年の東雀が口を挟む。
「うっわ、出たよ雀の『私に任せて頂ければ』」二年の六澤瑠璃が馬鹿にするように言う。
「な、な、なんてこと言うんだよ六澤さん! 私は先輩たちの苦労を察してだな……」
「はいはい、雀は量産型ザクの整備でもしていればいいのよ」
「し、失礼なことを言うな! ザクにもザクのよさがあるんだ!」
なんだかマニアックな会話になってきたなと三年の三人は顔を見合わせる。
「あ、あった!」満芽はカバンからデジタルカメラを引っ張り出した。「皆、写真撮ろうよ。夏合宿一発目の記念写真」
一同、満芽に注目し賛同する。
「いいですね。先輩あとでデータ送ってください」
私も私も、と三人が立ち上がる。一年の歌川風子(ウタガワフウコ)、同じく飯塚花子(イイヅカハナコ)、同じく鏡鏡子(カガミキョウコ)だ。この三人はいつも一緒に行動している。
「満芽! あとでカメラ貸して静と二人で写ったの欲しいから」日陰で涼んでいた藤田美早が大声で言う。
よーし、と満芽がカメラを覗きチェックをする。
結局建物をバックに撮ることになり入り口に皆集まった。
「ほら、今こそ私に任せてくださいって言えばいいじゃない」雀を小突く六澤瑠璃。
「それじゃあ、私が写らないじゃないか。そんなの許されない」と雀。
「いいよ、俺たちが交代で撮るからさ」見かねた碇が言う。
それを聞いて東雀は堂々と中央に立った。
「ほら! 碇なにやってんのよ」満芽が碇を呼ぶ。
「へ? なんだよ」
「あんたが撮るのよ! 当たり前でしょ」当然だというように満芽は肩をすくめる。
「あ、あの……」
そこで小道鳴が、か細い声で申し訳なさそうに律儀に手を挙げた。
「小道さんどうかした?」碇が助かったとばかりに振り返る。
「あの……佐々木先輩がまだいませんが……その、写真いいのでしょうか?」小道鳴は本当に申し訳なさそうに言う。
「鳴はやさしいね」六澤瑠璃が小道鳴の頭をなでる。「でもね、こういうときは駄目よ。忘れた振りしとかないと」
確かに少し遅いとも思ったが問題ではないだろう。
「そういうこと」そう言って碇は腰に手を当てむくれている満芽に呼びかける。「とりあえず試しに一枚撮ってくれよ。全員はいるかとか分からないだろ」
それを聞いて清浄満芽はしぶしぶカメラを構える。
「さすが碇、扱いがなれてるね」青山静が碇の耳元で呟く。
ハイ、チーズ!
3
「うわぁ、涼しいですね」ゆっくりとしたしゃべり方で小道鳴は感激の声をもらす。
外の暑さに比べると天と地の差である。月とすっぽんとも言う。
「これで私は無敵だ」麦藁帽子を取り魅惑的な表情を見せる上屋敷了。
「ちょっと、何か飲み物無いのぉ? ねえ静、部屋は一緒だよね?」
玄関から左手にホールが広がっており小さなテーブルとソファが置かれている。その奥にカウンタらしきものがある。
「さあね、今回の企画は僕参加してないからね。碇たちに聞きなよ」青山は笑顔を見せる。
「あ、それ私たちも気になります! 部屋の割り当てって決まっているんですか?」三人組の一年生の鏡鏡子が手を上げる。
そこで、佐々木剛太がカウンタから戻ってくる。
「おう、一応決まっているぞ」手に持った資料を振りながら佐々木が答える。
部員たちがにわかに騒がしくなる。
「まあ待て。その前にこの富士見荘の管理人さんに挨拶だ」そう言ってカウンタに立つ背の高い男のほうを向く。
佐々木剛太もかなり巨漢な方だが、身長だけで言うならばカウンタに立っている男の方も負けていない。
「どうも、富士見荘の管理人をしている和久田と申します。短い間ですがよろしくお願いします」和久田は丁寧に頭を下げる。
それにつられて部員たちも皆それぞれに頭を下げた。
「いえいえ、こっちこそ迷惑かけるかもしれませんからよろしくお願いしますね」と佐々木。
「では、まずこの施設についてご説明しましょうか?」和久田が佐々木に向かって聞く。
「ええ、お願いします」佐々木は頷く。
それに答えるように和久田は小さく頷いた。
「まず、ここは受付となっています。受付といっても普段からここにいるわけではないので必要なときは気兼ねなく呼んでください。携帯電話の番号は佐々木さんに知らせてありますし、パンフレットのほうにも記載されています。ここのスペースはお好きにご利用ください」目の前にあるソファなどを示す。
「そして、玄関横のドアを通りますとリビング、ダイニングとなっております。リビングの窓の外にはデッキがありますのでバーベキューなども出来るようになっています」
三人組が小さく歓声を上げる。
「ダイニングからキッチンまで続きの部屋となっております。玄関正面にありますドアがキッチンへ通じています。そして受付、皆さんから見て右手の廊下を進みますと風呂がございます。一応男女別れていますのでご安心ください。そして、受付の後ろ側、廊下の左手に私の部屋がございます。私がいるからといって騒ぐのは遠慮しないでいいですからね、なかなかに頑丈な作りをしておりますし、何より楽しんでいただかなければ本末転倒ですからね。あ、宴会などはリビングなどでやっていただいてもかまいませんのでどうぞご利用ください」
やはり学生が使うと宴会が多いのだろうと碇は考えた。
「最後になりましたが、皆さんの部屋をご案内しましょう」そう言って和久田はカウンタから出る。
皆それぞれに荷物を持ち立ち上がる。
皆がいたスペースの中央付近にある階段を和久田が上り、それに部員たちがぞろぞろとついていく。
階段を上りきると左右に伸びた廊下に出た。廊下の窓からは建物の裏手の森が見える。
「では、あちら側から」およそリビングの上にあたるところにあるドアを示す。「201号室、202号室、階段を挟みまして、203号室、204号室となっております。鍵は内側から閉められるようになっています。外から見えたかもしれませんが、バルコニーは一続きになっています。以上です。何か質問はありますか?」
和久田が笑顔で廊下に並んだ部員たちを見回す。
「あの、外から……つまりこちら側から開ける鍵は無いんですか?」青山静が質問をした。
他の部員たちも頷く。
「はい、ございます。ただ、今回貸しきり状態となっておりますので佐々木様から必要ないとのことでしたので……もしも、ご利用の際は受付にございますので」
皆、佐々木を見る。
「な、なんだよ。別にいらないだろ? 俺たちしかいないんだし、夜は中からかけりゃいいだろ」
「ま、確かにね」六澤瑠璃が肩をすくめる。
「他にご質問ありませんか?」和久田はもう一度皆を見回す。
反応が無かったので「では、これで」と言って階段を下りていった。
4
紆余曲折、というほどでもないが僅かにもめた。
一番文句を言ったのは藤田美早だった。
これは誰もが予想していたことだったので、実際問題はなかったといっていいだろう。
部屋割りである。
建物の東側、リビングの上に当たる201号室に佐々木剛太、上屋敷了、碇凉道。
その隣階段の東隣にある202号室に青山静、東雀、新谷瑞樹。
階段の西隣の203号室に清浄満芽、藤田美早、小道鳴。
そして、一番西側の204号室に六澤瑠璃、歌川風子、飯塚花子、鏡鏡子。
という配置になった。
「おいおい、なぜ私だけ男女同室なんだ?」上屋敷了が聞く。
抗議というよりはミュージカルのセリフを言うかのような調子だ。
「んあ? いいだろ別に」佐々木が201号室のドアを開けて言う。「これじゃないと男女のバランスが悪いんだよ。一年生たちを同室にするわけにいかないし、俺たちじゃ間違いも起こらんだろ」
「君それは……」上屋敷了はそこまで言いかけて何かに気がついたように頷く。
碇はドアのところで急に立ち止まった上屋敷了にぶつかりそうになる。その光景を二つ向こうの203号室に入ろうとしていた清浄は見ていた。
「どうしたんですか? 上屋敷先輩」碇が聞く。
「女性差別のジレンマに気がついたのだ。私はまた賢くなる」振り向きもせずに上屋敷了が答えた。
女性差別のジレンマ?
「まーた、くだらないことだろう、どうせ」佐々木はいの一に自分のベッドを決め窓際のベッドにカバンを置いた。「おおー広いな」
同じく自分のベッドを決めたらしい上屋敷了もベッドにカバンを乗せる。
「くだらないとはなんだね。失礼な」そう言ってベッドに腰を下ろし、スタイルのいい足を組む。
一方202号室。
青山静は、まあこんな配置になるであろうことを予想していた。
恐らく自分は、この二人をまとめるという意味合いでこの部屋なのだろう。他の部屋は清浄満芽、六澤瑠璃がそれぞれ監視役のような役割として割り当てられている。
「青山先輩、自分が先に寝床決めていいですか?」と東雀が嬉しそうに言う。
青山は予想していたかのように笑顔と共に了承する。
「新谷君も好きなとこ使っていいよ。俺は最後でいいから」
部屋に見とれているのかぼうっとしていた一年生の新谷瑞樹に話しかかる。
「は、はい。ありがとうございます。僕こんなにすごいところだと思いませんでしたよ」
新谷瑞樹は子供のような笑顔を見せる。
彼は本当に大学生かと思うほど幼い顔をしている。まあ、ついこの間まで高校生だったことを抜きにしてもだ。
「うん、俺もここまで豪華なところだとは知らなかった」新谷が入り口傍のベッドに荷物を置いたのを見て、青山は壁に平行に並べられているベッドを取った。「何かコネでも使ったのか?」
「あれ? ここって去年も使ったところとかではないんですか」新谷が首をかしげる。
それを聞いて東雀がにやりと笑う。
「ふふん、新谷君は初めてだから知らないだろうけど、アクティ文芸部の去年の合宿はここではなく、海でしたよ。私が部長になる再来年には君の意見も聞いてあげられるかもしれないね」東雀が大げさにベッドに腰を落とす。
「そ、そうなんですか……」新谷の笑顔が引きつっているのは気のせいだろうか。「じゃあ、毎年違うところってことなんですかね」
新谷は顔を青山へと向ける。
「うん、とりあえず俺の参加した三回は違う場所だね。予算の問題とかもいろいろあるだろうから、その調整と皆の意見で変わるんじゃない。今回は意見なんて聞いていなかったけど……」青山は部屋を観察する。
この建物に入った時からだが、どこを見ても木である。コテージなどはやはりこういう作りが多いのだろう。
山は木、温泉は畳、旅館は絨毯、都会はコンクリート、青山はそんなイメージを頭に描く。
この部屋は三人部屋のようだ。なぜならばベッドが三つしかないからである。階段がある側の壁に平行するように一つ、201号室側の壁から突き出すように二つベッドがある。その他にはクローゼットが入り口すぐ横にあり、窓際にはテレビがあるだけである。
こういった作りの建物特有の足音が響くようなこともなく、隣の部屋から音も聞こえない。外見が木であるだけで、主要な部分は鉄骨構造になっているのかもしれない。和久田という管理人が言っていた、頑丈な造りというのはこのことだろうか。
青山静は記憶力がいい。
ドアは内側からかけられるシリンダー錠、つまり極一般的な鍵がついている。窓は大きくこちらも鍵がついている。
青山静は鍵を開けてバルコニーに出る。窓のすぐ傍に日焼けして色の薄れたスリッパがあるのでそれを使う。
ベランダには既に何人かが出ていた。
バルコニー側は南に面し山の下に広がる風景が遠くに見える。火傷しそうな日差しと熱気に満ちた風が夏を身に染みさせてくれる。青山静は手でひさしを作り太陽を遮る。
富士見荘の駐車場からの道は、少し行ったところで左手に折れ見えなくなっている。
「うっひゃー」西側の部屋の前で、青山と同じように手でひさしを作りバルコニーから身を乗り出しているのは清浄満芽だ。「さっすが登ってきただけあるね。見てみて、建物小さい!」
「せ、先輩。あんまり乗り出すと、危ないですよ」その後ろで清浄満芽を引き戻そうと小道鳴があわてている。
いや、引き戻そうとしているように見えるだけで、突き落とそうとしているのかもしれないが。などと青山は考えた。
同じ部屋の藤田美早が見えないが、恐らく彼女のことだ。日焼けを気にして出てこないのだろう。
「圧観、圧観」
青山の後ろで碇の声がする。
「なにそれ、関西弁?」青山はにやりと口元を上げ答える。
「この景色だよ。凄いもんだな、こんな景色山じゃなきゃ見れないもんな」
碇凉道は清浄満芽と同じようにバルコニーの手すりから乗り出そうとする。「それとも、お前は何も感じないか?」碇は含みのある言い方で言う。
「なんだ、その言い方は?」
「ふっふっふ。お前が言いそうなことなら分かるぞ、俺」
「自信満々だな碇、というか気持ち悪いぞ」眉間にしわを寄せながら言う。
それにお構いなしで碇は青山の口真似をする。
「『まあ、山じゃないと見れないというのは逆に山ならいつでも見れるということだろ。感動するほどのことじゃない』なんてところだろ」
「なんかむかつくなぁ。そんな声してるか?」そう言いつつも顔は笑っている。
「いつでも見れるが、普段見慣れない風景だからこそ美しいと感じる。それこそが美しい原理だ」上屋敷了は麦藁帽子をうちわ代わりにあおいでいる。
「美しい原理って……先輩それ自分で考えただけでしょ」碇は手すりに背を任せる姿勢でいる。
「言っていることは正しいよ、碇」青山静が上屋敷了に賛同する。
西側で一年生の三人組が騒いでいる。皆一様に同じような反応を見せるのは育ちが同じだからだろう。
そこに景色を見終えた清浄満芽が混ざる。
「なんだいなんだい。君たちはこんな素敵な場所で議論なんて、素敵を通り越して過激だな」
清浄満芽が碇の隣で同じ体制で手すりに寄りかかりながら、碇の肩にえらそうに肘を突く。
「まあ、言っていることは良く分からないけど一理あるな。静も先輩も一階に行きませんか?」碇は提案する。
さすがにここは暑いと感じてのことだ。
5
一階に降りてきたのは上屋敷了、清浄満芽、碇凉道、青山静である。
佐々木剛太は、管理人に話があると言って管理人室をノックして入っていった。
「へえ、これはなかなか……」上屋敷が息をもらす。
リビングの広さと作りが、一コテージのものだとは思えないほど凝ったものだったからだ。
階段を下りたところのドアを入ると右側には、畳一畳はあろうかという足の短い深い茶色のテーブルをコの字に囲むようにソファがある。右手の壁側にはこれまた大きなテレビ――四十二インチだろうか――があり、両隣に背の低い本棚がある。その上には写真や置物がある。
よく手入れされているようで埃もかぶっていない。
駐車場側には大きな窓があり、外から入る光が広い部屋を照らし出している。だがさすがに部屋の左奥は薄暗くなっているが、それがまた涼しそうな印象を持たせてくれる。
こちらには足の長い食事用のテーブルが二つ並んでいる。椅子の数からして一度に全員食事をするのは無理そうな感じだ。
「しかし、ホント外とは格別された世界って感じだな」
碇は部屋をぐるりと見回す。
「まあ、家なんてそんなもんでしょ。格別された世界だと感じるからこそ安心して眠れるんだよ」青山は真っ先にソファに座る。「今じゃ、鈍感になりすぎて何処でも別の世界だって感じている人の方が多いけどね」
「まあまあ、話はあとあと!」
手をひらひらさせながら満芽が部屋の真ん中で仁王立ちをする。
「なんだよ、あとって何かすることでもあるのか?」碇が聞く。
何しろドアのところにいた碇に向かって満芽が仁王立ちをしたのだから、碇が聞かざるを得ない。上屋敷了は本棚に釘付けになっている。
「の、み、も、の! もう、喉乾いちゃってさぁ。キッチンって勝手に使っていいんだよね?」
えへへーと白い歯を見せながら健康的に笑う満芽はかわいい。碇凉道はそう思う。
「分かったよ、管理人さんに聞きに行こう。……和久田さんだっけ」
管理人は快く了解を示してくれた。「冷蔵庫の中の麦茶は飲んでかまいませんよ。ただ、食材は駄目ですよ、今日のご飯がなくなってしまうのでね」
キッチンは普通の家庭のものと変わりはなかった。他が凄いので碇は少し拍子抜けしてしたが親近感が沸くのを覚えた。
満芽は大きな冷蔵庫を開け、麦茶を見つけ取り出す。その間に碇がグラスを人数分見つけ並べていた。
「このチームワーク、すばらしいね」満芽が嬉しそうに言った。
碇は肩をすくめる。
碇と満芽が、それぞれ二つずつグラスを持ってリビングに届けた。
「おお、来るものが来たか……」今まで本棚を見ていた上屋敷了が立ち上がる。
そういえば、青山と上屋敷先輩が話しをしているところをあまりみたことがない、と碇はふと思う。
「ふぁー……」大きく体を反らしてから、満芽は足を投げ出してソファに座る。
「おい、女なんだから少しは恥じらいってもんを持てよな」
「なぁにぃ? 碇、欲情したぁー?」
「バ、バカ言ってんじゃねえよ! 上屋敷先輩見習えってのさ」碇が焦って言う。
碇が焦っているのを見て満芽がからからと笑う。
「碇は根が正直なんだよ」青山がからかう。
「詐欺に引っかかるタイプ?」
「いや、真贋を見る目は確かだからね。はっきりと断るタイプ……かな?」
「お前ら人のことを勝手に……それよりさっきのどこでも別の世界ってのはなんだったんだよ」碇は話題を変える。
「お、それ私も気になる! 家の中が別の世界なんでしょ、その外はどうあっても外の世界じゃないの?」満芽はころりと話題に乗った。
上屋敷が、ふん、とようやく聞こえるほどのため息をつく。
「うん、最初の考えで言えばそうなるんだけどね。考えてみなよ。今僕らが通っている大学、その周辺の街、どこが外だといえる? 女の子はまずいと思うけれど、男だったら気温さえ高ければ外で寝てても何の問題もない。常に街灯は灯っているし、携帯でいつでも誰とでも連絡が取れる」そこまで言うと青山は一息つく。
青山のこの行為は三人に考える時間を与えた。いや、あまり興味なさげにしている上屋敷了は特に考えてもいないかもしれない。
満芽は青山の言うことを考えてみた。
まあ、青山の言うことはなんとなく分かる。外で一夜を過ごしたとしても平気である。というのは人体の生存という意味だけでなく現在の社会の街中であれば、どこであっても何らかの関係は保たれたままいることができている……というところか。
碇が同じようなことを口に出して言った。「……ってことか? そりゃ確かに外というには甘い境界かもしれないけど、家って空間は別物だぜ」
「それは、経験? それとも、思想?」
「うーん、どちらかと言ったら経験になるかな……あ、駄目だ。それじゃ説得力なしじゃん」
碇は、言っている途中で自分の意見を否定する。
「こういうのは変化しやすくって曖昧だからね。じゃあ、何で家で安心を感じるのかわかる?」
「さっき言った経験が大きいんじゃないの? それとも家族が一緒にいるってことから派生して、守られているっていう保護妄想にもなるかなぁ……」今度は満芽が答える。
「一人暮らしなら家族はいないわ」上屋敷了が両断。
「う……そっか。だよねぇ」満芽は落胆し足元をみる。
「でも経験って言うのは正しい」
「え、マジ?」満芽は顔を上げる。「よっしゃ!」
「何度も通っている道とか、店とかでさ、どこに何があるか、どこが人通りが多いかとか経験として知っているでしょ。あそこの曲がり角はあまり人が出てこないから、気をつけなくても大丈夫とか思うでしょ。確かに経験上危険性は少ないかもしれないけれど、可能性はゼロとは言い切れないはず。それでも俺らは安心してしまう。どうしてだか分かる?」
「だから経験でしょ?」
「もう一歩」
「経験……」碇は頭に血液で酸素を巡らす。「慣れ、思い込み、油断、甘え……洗脳?」
「碇は博学だね。そのどれも正解、最終的に俺らは自分を自分で洗脳している。ここは安全な場所だってね」青山静は手を広げて空をなでる仕草。「じゃないと体が持たないんだよ、どれもこれも疑わしいじゃ常に気を張り詰めてなきゃいなくちゃならなくなる。だからなるべく負担をかけないようにいろいろな可能性を切り捨ててるんだよ」
碇と満芽は顔を合わせた。
いや、もしかしたら二人同時にそれぞれの背後が気になりそちらを向いただけかもしれないが。もしくはどちらか一人がそうだったのかもしれない。
青山はそんな二人を見て、本当にお似合いの二人だと思う。二人とも頭は良く回り、感情の起伏も似ている。
ただ残念なのが碇は自分にないものを求めたがり、清浄は自分と似た性質のものを求めているところだ。碇は清浄の気持ちに気がついているだろうけれど、碇の求めるものは自分とは異質なものだ。
そういう意味で二人は異質なのだけれど、と青山は保護者の気分で二人を見ている自分がおかしかった。
「家が安心できる空間っていうのはそれで説明できる。問題は外だ。俺らは普段違う人間で違う思考をして生きているけれど、実は情報を共有する動物でもある。それはモラルという形で社会を形成していく上で自然と構築されていくものだけれど、俺らみたいに初めからこの馬鹿でかい社会の中に生まれてしまった人間には、実に小さい頃から深層意識に刻まれてしまっている。そして、他人が同じ環境で育ったってことも知っている訳だ」
「まあ、八割方そうだわな」
「凉道その八割ってどこから来たのさ」
「アバウト」
「……」
「まあまあ……そんな環境で俺らがする作業ってのは仮想的に相手に近づくことなんだ。あいつは俺と同じ環境で育ってるんだから考え方も似ているはずってね。そして、俺らの考えはこの国の街中は安全。極端な話、そんな考えを皆が持っている所じゃ外も中も変わらないってことさ。街中じゃ外と中の境界がなくなってどこでも自分たちの安心な世界になってるってわけ。それで、外があることを忘れている、鈍感になっている」青山は麦茶を一口飲む。グラスには水滴がついている。「例えばだけど、そんな人達が深い森で一夜を明かそうとしたら大変な話だよ。小さな物音が気になり、獣の鳴き声に怯え、暗闇に何かいるんじゃないかなんて妄想を抱いたり、気の弱い人だったら発狂まで行かなくっても一睡もできないのはざらだろうね。発狂したところでそこは外なんだから逃げ場なんてどこにもないんだけどね。忘れているのさこの世界は別の世界なんかじゃないってことをね」
たどり着いた結論に四人は口を開かなかった。
「話は弾んでいますか?」
急にドアのところから声がかかり背を向けていた碇と満芽は驚いた。
「わっ! びっくりしたぁ。和久田さんか……あ、部長も」
和久田の隣にはがっしりした佐々木剛太部長が立っていた。
そういえばここで話し始めてから結構経っているが、その間ずっと佐々木部長も富士見荘の管理人と話していたのだろうか、と満芽は気になった。そんな話すことなどあるのだろうか……。
「そろそろ、昼食の準備を始めますね。昼食は簡単なものですので少々お待ちください」和久田は丁寧にいった。
「あれ、昼食って出ないんじゃありませんでしたっけ?」碇が首をかしげる。
確かに朝夜食事付とパンフレットには書いてあったはずだ。
佐々木と和久田が視線を合わす。
「まあ……サービスです」和久田は笑顔で答えた。
6
昼食は和久田の言ったとおりシンプルなものでご飯、おひたし、煮物、味噌汁、といったメニューだった。
テーブルは二つあり、それぞれ六人掛けで部員一人が余ってしまう図式になった。結局、テーブルには一年から二年までと青山静と藤田美早が隣同士で座り、残りの四年と碇凉道、清浄満芽がリビングのテーブルで食事を済ませた。
一年の三人組み歌川風子、飯塚花子、鏡鏡子は当然のように三人で固まり、夏休みの計画を話していた。何しろ大学に入ってはじめての夏休みである。大学の夏休みは長く、自由で、計画するだけでも楽しいものだ。
一方、青山静と藤田美早のペアは食事に来たカップルそのものだった。多少、藤田美早のアピールが強くそれを上手く受け答えているのが青山静という構図だ。
あとは余ったもの同士で話すしかないが、余りには東雀と六澤瑠璃、一年の新谷瑞樹だ。東雀は他人とのコミュニケーション能力に優れているとは言いづらい人間である。しかし、六澤瑠璃と出会ってからは多少レベルがあがったとも言えるだろう。
六澤瑠璃という女性は、実に面倒見がよく好き嫌いを回りの判断では決してしないのである。東雀と言い争いをしていても、同じ席に座っている新谷瑞樹のこともかまいつつ上手く話を進めている。
新谷瑞樹は子供っぽい外見のわりに落ち着いた性格をしている。
四年と碇、満芽のグループは合宿の予定の確認をしている。
部長が佐々木剛太となっているが、アクティ文芸部は夏に四年から三年へ幹部の引継ぎが行われる。普通大学のサークルといえば三年から二年への引継ぎというのが一般的だが、アクティ文芸部では強制力のあるサークルでもなく人数も少ないのでこういったスタイルを取っているのだ。
つまり、この合宿は四年から三年への引継ぎという一大イベントも含まれているのだ。
食事を終えた一同はリビングを使い現在までの復習や、実際に作成した作品についての批評、有名な作品や作家の研究を行った。こういった部分は、他のサークルに比べても真面目な部類に入るであろう。
テレビに持ってきたパソコンをつなぎディスプレイとして使った。テーブルのソファには一年と青山静と藤田美早が座り、テレビの横に佐々木が床に座りそのほかのメンバは椅子を持ってきて座ったりした。
終始興味なさそうにしていたのは藤田美早だけだった。何しろ彼女はもともと文芸に興味があるわけでもなく、ただ青山が所属しているというだけでこのサークルにいるだけなのだ。それは本人も話していることである。経済学部に所属する藤田美早は、いわゆる才女というもので文芸をやればそれなりの能力を発揮できるのは間違いないと他の部員たちも認めるところだ。しかし、彼女には全く興味のないところらしく、これまで青山のいないときにサークルに現われたことすらないくらいだ。
そもそも、彼女がこのサークルのメンバなのか怪しいところだ。
堅苦しい授業や批評は初めの数時間で終わり、そのあとは各々好きなように話し合ったり、書き物をしたり、といつもと違う場所でいつもと同じような時間を過ごした。
三人組は合いも変わらず楽しそうに話している。どうやら話題は漫画に出てくる人物に移っているようだ。
東雀は、先ほど食事をしたテーブルに自分のパソコンを置きアニメ鑑賞に浸っているようだ。六澤瑠璃は一年の新谷瑞樹に自分の書いた作品を読んでもらっている。ちなみに六澤瑠璃の専門は恋愛小説である。
「つっても、あたしなんか恋愛に興味があるわけでもなんでもないんだけどね。だからこそ理想的恋愛ってのを求めて書いちゃうわけ。これってどう考えても自己満足でしかないんだけどさ」
そう言って、六澤瑠璃はなんともいえないような顔をするのだ。
サークルのメンバにもいろいろある。小説を書きたいという意思を持っている者もいれば、小説が好きというだけで書く気はないという者、アニメーションが好きな者、漫画が好きな者、とまさに雑多であるがそれぞれに意図がありサークルに所属しているのは間違いはない。そしてサークルの活動の主導権を握るのは上級学年の人間になる。
現在は佐々木剛太が活動内容を決めている。ちなみに佐々木剛太はファンタジー小説が専門である。
人は見た目に寄らない、という実例として彼は貢献していると言っていいだろう。
だが、長く続いている慣習は後世にある程度の束縛を与えるものらしく、今のところ文芸部という銘の通り文芸を主軸に活動を続けている。
「また、ファンタジーですか」碇凉道が、佐々木剛太から渡された設定資料に目を通しながら呆れた声を出す。「だめっすよ。一種類ばっかりやってちゃ文体固まっちゃいますよ?」
佐々木剛太は設定を一つの大学ノートに書き込んで、それと同時進行で作品を作っていくスタイルをとっている。なんでも憧れの先輩がそうやって作品を作っており、その人に教えてもらったのだそうだ。
ノートには世界観から、登場人物の容姿や性格と様々なことが記してある。
「いや、そんなこといってもな。どうもこういうのしか俺には向いてないんだって」
その体格と山男みたいな顔で言うか? と内心で突っ込む。
「先輩、その体格と山男みたいな顔でそれを言いますか?」と碇は声にも出してみる。
「でも、よくもまあこんなにファンタジーばっかり書けますね。そんなに好きなんですか?」碇の隣からノートを覗き込んでいた満芽が聞く。
「そりゃ、好きさ」佐々木剛太は山男らしく床にあぐらをかき座っている。「こんなにすばらしいジャンルはないだろう。世界そのものを一から作っていくんだぞ? しかもそこに常に関わっているのが『愛』だ。シェイクスピアも言っているだろう、人は何かを演じているってな。ファンタジーではそれがあからさまだろ? だからこそ登場人物が栄える。魅力に引き込まれる。どんなくさいセリフでも不自然に感じない。まさに理想だろ」
佐々木は満足げに言ってのけて目を子供みたいに光らせた。
「つまり、まさに今の先輩みたいに恥ずかしいってことがないってことですね」人差し指をくるくる回して満芽が言う。
「おお! お前鋭いな」
「ふっふっふ。私の鑑識眼を見くびっちゃぁいけませんよ、凉道君」
「まあ、言ってる本人がくさいセリフを言ってのけちゃうんだから世話ないな。でも、愛ってのはどうよ?」
「いやいや、見た目で判断するのはよくないわよ。グレイみたいな宇宙人だって愛を語ることもあるかもしれないしさ」
「お前ら、俺は未確認生物か」と山男は言った。
第二幕 夏の夜の変奏曲
1
上屋敷了は機嫌が良かった。
表情や態度に表れにくいつくりをしているが、内心で自分の今の心境は手に取るように分かる。
とはいっても、自分のことなのだから当然かもしれないが……。
何が機嫌をよくしているのかといえば、やはりこの特異な環境だろう。閉鎖的な環境の中で、普段一緒に生活をするはずもない人間たちがある関係を通じ、数日とはいえ衣食住を共にする。それに伴ない高揚する人格、もしかしたら何か特別なことが起こるのではないかという受動的な妄想。その意思を共有することによって、力が働くこともある。
それを知っている自分が不幸だとしても、そのことが自分を機嫌を良くしている。
――もしかして私ってマゾヒスト?
ここにいる人達は実に多種に富んでいる。均一を保とうとするこの社会において、ここはオアシスとも言うべき多様性を維持している。それが嬉しい、それが自分を成長させている。そう上屋敷了は考察していた。
「先輩、204号室が鍵かかってるみたいで開かないんですけどどうしたらいいですか?」
「中に誰かいるんじゃないのか?」
「多分、風子がいると思うんですけど寝てるみたいで……」
「起きないのか?」
「あの子一度寝始めちゃうとなかなか起きないし……」
「そうか、今日はかなり歩いたから疲れたのかもしれないな。和久田さんにいって鍵貸してもらおう」
上屋敷了は本から目を離さずに佐々木と鏡鏡子の会話を聞いていた。
佐々木の人望は厚い。
それは自分にはない能力だと思う。実際これだけの人間から慕われるような立場に立ったら、くすぐったくって仕方がないと思う。そして、そんな自分を嫌悪する。
「おう、上屋敷。そろそろ飯の準備するぞ」
上屋敷了はページ数だけ覚えて本を閉じる。
「そう。一年生はいいの?」
「ああ、青山達に任せたからな。とりあえず食材と火の準備だけはしておかないと……あと、皿か」
「そういえば今日の晩御飯は何?」
窓の外を見ると空は群青色に塗られ、そろそろその色彩すら失おうとしていた。
――つまり、夜になるということだ。
「今日は外でバーベキューだ」佐々木は二カッと歯を見せて笑う。
「あら、素敵ね。蚊取り線香を焚いておかなくっちゃ」上屋敷了も微笑む。「ブタの蚊取り線香置きは無いのかしら……」
やはり、蚊取り線香といえばあの置物であろう。
2
「あっ、また刺された……」
清浄満芽はひじの辺りを指先でポリポリと掻く。
「健康的過ぎるってのも考え物だな。俺なんかめったに刺されないけどな」
碇凉道は、いい焼きごろの肉を鉄板から救い出し、たれに浸して口へと運ぶ。
空いたスペースにすかさず肉を敷き詰めるのは六澤瑠璃である。
「蚊にはおいしい血とおいしくない血が匂いで分かるそうですね」六澤瑠璃は肉の乗っている皿を左手に、右手にトングを持っている。「あ、先輩そっちのお肉も焼けてますよ」
「血液型も関係あるって言うよね。あと、とんでもなく嗅覚がいいってのも聞くよね」満芽が肉に手を伸ばす。「まったく、なんだってあんな小さな体に迷惑な機能がついてんだか……」
サークルのメンバがバーベキューをしているのは、リビングの外にあるデッキの上である。全員がデッキの上に乗るには少し狭いが、デッキから先は何もない平地なのでスペースは問題なかった。管理人である和久田が気を利かせて、デッキからすぐの所にキャンプ用と思われるテーブルと椅子を出してくれた。
デッキの上にバーベキューグリルが二つ、その周りにメンバの半数、テーブルのある方に残りがいた。
その周辺にいくつかの蚊取り線香が炊かれていた。これは上屋敷了が率先して行った。
場所の関係上デッキの上にいるメンバが調理や、飲み物をキッチンに取りに行く役目を負うことになっている。
テーブルの周辺では誰が持ってきたのか花火を始めているが、どちらにいてもこういう場合はそれなりに面白いものだ。満芽はそう思った。
どちらがホストということも無いのだ。
満芽は、建物の中からもれる光に照らされた碇の横顔をちらりと盗み見る。
こんなにも近くに感じる。いつもと物理的距離には差なんて無いのだが、なんだかいつもよりかもすぐ近くにいるように感じるのだ。
ここが外だから?
街中や大学から離れている。格別された世界から離れ、何もないノーマルな……そう、プリミティブな状態にいるから?
ううん、きっと酔っているだけ。
この状況に、この世界に、自分自身に。
「ああ、もうっ!」
突如、東雀が紙皿を投げ出して暴れ始めた。
「うわっ、あいつ何やってんのよ」と六澤瑠璃が嫌そうな表情を見せる。
東雀はテーブルのそばにいたはずだが、両手を振り回しながら見えない何かと格闘している。そのなんとも滑稽な踊りを見て佐々木は大声で笑い始める。
「雀! なにやってんよ?」六澤瑠璃が暴れる東雀に声をかける。
「蚊だよ! 蚊!」東雀はもうたまらないといった感じで切実な表情で叫ぶ。
「なによ、そんなにいないでしょ。大げさなんだから……」
「違うんだってば、何でか知らないけど僕は刺されやすいんだぁーーー」
東雀はそういうと何かから逃げるようにスウェーを繰り返す。
「どうやら、お前よりかもうまい血の持ち主がいたみたいだな」そういいながら碇は笑った。
「あの……、飲み物ありますか?」
おっとりとした声で小道鳴が碇と満芽に話しかける。
「あ、鳴。なに、飲み物? ちょっと待ってね」二人の代わりに六澤瑠璃が答える。
「あ、そういえば小道さんと東君って同じ学科なんだっけ?」
ふと碇が思い出す。
小道鳴は、いつもは下ろしている髪の毛を束ね短いポニーテールを作っている。彼女が頷くとそれが跳ねるように揺れる。
「はい、日本文学科で一緒です」小道鳴は愛らしく笑顔を作る。
人形のよう、という言葉が似合うとはこのことだろう。
「東君って学科だとどんな感じなの?」碇が聞く。
「うーん、どうって言われても……」小道鳴は首をひねり、少し考えるようにしてから答えた。「とってもやさしいですよ」
「……え?」
三人が同じ反応を取る。
三人の発した『え』には濁点が付いていてもいいだろう。
「鳴、別に気い使わなくてもいいんだよ」六澤瑠璃は小道鳴の肩にそっと手を置く。「東だよ? 東雀、あいつが……優しい?」
鳴は何が間違っているのか分からないというような顔をする。
「瑠璃、私何かへんな事言った? 東君いつもやさしいよ」
少し離れたところでは東雀が奇声を上げ空を飛ぶ蚊と格闘をしている。
もちろん佐々木は爆笑を続けている。
「し、信じられん……」六澤瑠璃はどう見ても変人にしか見えない東に視線を向ける。
「同じ授業で私が休んだときとかノート貸してくれたり、出席カード出しておいてくれたり、勉強も教えてくれるし」六澤瑠璃から飲みものを受け取りながら小道鳴が話す。「お勧めの本とか紹介してくれたりもするよ」
小道鳴の様子からして嘘ではないようだし、何かの間違いということもないだろう。
つまり、東雀は小道鳴の前では常人のように振る舞い、それどころか優しさをもって接しているということらしい。
「うーん」
三人は額を寄せ合って腕を組む。
「どう思いますね、満芽さん」と碇。
「もしかして?」と満芽。
さらに額を近づけ小声になる。
「信じがたいことですが……」と六澤瑠璃。
「これは……恋慕?」
そう言った碇に二人の女性の視線が集まる。
「可能性としては三つ。一、元々やさしさを持ち合わせたいい男だった。二、ただの気まぐれ。三、病気」碇は二人を交互に見る。「ああ、ちなみに三のは恋のって意味ね」
三人は元の体制に戻り、ずっと不思議そうな目で見ていた天使のような少女、小道鳴へと向き直る。そして、変人へと視線を向ける。
また、三人は目を合わせる。
そして、申し訳なさそうに目を逸らす。
つまり、三人の意見は一致したのである。
碇がぼそりと言う。
「応援したいのは山々だが……」
「釣り合いというものを考えるとどうもね……」
「なんだか泣けてきました……」
3
バーベキューの片付けもそこそこに終らせ、一部の部員たちはリビングへと集まりそのまま惰性でパーティを続けていた。
昼の疲れをものともしないのか、その疲れを我慢してでも残りたいのかはそれぞれだが一年と藤田美早以外の全員が残っていた。
テーブルの上にはつまみとビールが並べられ合宿というものを堪能していた。
青山静と碇凉道、清浄満芽、上屋敷了は会話をしている。
一方では酔った佐々木剛太が二年を集めて教鞭という名のテロを行っている。佐々木の周りにはビールの空き缶がいくつも並べられている。
「こういう状況っていいよね。いかにも何か起こりそうな感じでさ」
碇がビールを空けながら言う。
すかさず満芽が新しいビールを差し出す。
「確かにね。まさしくミステリー小説とか……あ、この後洞窟でも発見すればSFにもなりそうだよね」青山が答える。
「それいいかもー」満芽が嬉しそうに答える。
ジャージ姿の彼女は酔っ払っているのか顔が赤い。
「現実的じゃあないな。ここはやっぱり町に帰ってみると実はみんな某国の侵略を受けてて、家族も操られている状態になっている。しかも、私たちはそれに気がつかない、とか」
上屋敷了の髪の毛は下ろされ、白いパジャマを着ている。
「ええっ、現実的どころか気がつかないんじゃ小説にもならないじゃないですか」
碇が笑う。
「そう? 皆が気がつかないところが現実的じゃなくって」
三人がおおっと歓声を上げる。
「確かにね。さっすが私の見込んだ先輩です!」
満芽が上屋敷了の手をとり見上げる。
「なんで、お前が先輩を見込むんだよ。普通逆だろ」
満芽は楽しそうに碇にあかんべーをする。
「でもやっぱこういう状況はゲームにもあるよね。えーと……カマ騒ぎの……いや、イタチ達の……なんだっけ?」
碇が手をあごに当て唸る。
「あるある! 冬のペンションで閉じ込められて、殺人犯がってやつでしょ」満芽が目をきらきらさせ碇に体を寄せる。「いいよね、王道っていう感じのシナリオだけどそれがまた迫力あってさ」
満芽はいつもよりかも大胆な自分に気がつきはするものの不思議だとは感じない。酔っているせいで周りが、見えていないのかもしれないけれどこういう場ならそれも許されるだろうと思うのだ。
「閉鎖的空間、第一の殺人によってできる特異な状況、つまり誰が殺人を犯したのか分からないことが誰もが疑心暗鬼に囚われる。そして、犯人の目的の謎」
上屋敷了の手にはいつの間にかグラスが握られている。それを一口飲み笑顔でおいしいと呟く。
「面白いと感じる場面は人それぞれだろうけどね」青山が言う。
「俺はやっぱり心情の変化が好きかな。モラルの崩壊とか疑心暗鬼とか、想像はするけど実際体験することはないもんね。それこそ戦争とかにならないとないだろうし」碇の視線は青山に向けられている。「なにより、そんな状況じゃあ楽しむことはできなさそうだからね」
言い終わってから皆に意見を求めるように見回す。
「俺はトリックの方かな。トリックって言っても複雑なものじゃなくていいんだ。いかに単純なものに騙されてしまうかが面白いところだと思うよ。叙述トリック含めてね」
「あたしは……」満芽の焦点はいまいち定まっていない。「全部!」
「お前、大丈夫か?」
満芽はけたけたと笑っている。
「心配?」
笑っていたはずの満芽が急に顔を近づけてきたので碇は驚く。
満芽からはシャンプーの甘い香りがしている。
「碇、部屋に連れて行ってあげれば?」青山が言う。
「あ、ああ、そうだな」碇は頷いて立ち上がる。「ほら、満芽立てるか?」
ふらふらと力なく立ち上がり碇にもたれかかるようにして歩き出す。
「もう、眠く……なんてないよ」
ぶつぶつと満芽が文句を言うが碇は無視して抱えるようにして二階へ向かう。
そんなに飲んでいた気はしなかったけど、相当酔ってるな。
一階の受付付近、階段と電気は消えていて暗い。二階の廊下だけは月の明かりで照らされ足元がよく見える。廊下を上りきり左へ曲がる。203号室は階段を上ったすぐ左だ。
確か、藤田美早が部屋にいるはずだ。小道鳴はまだ一階にいた。
一応ノックをしようと思ったが、満芽を抱えながらするほどのことでもないと判断した。
藤田美早ももう眠っているだろう。
「ほら、しっかり立てよ、もう」
満芽を抱えなおしてドアを開ける。
「あっ」
部屋に入ると小さな声がした。
電気は消えているが外からの光でベッドの隙間から人が立ち上がるのがわかる。
――何をしていたのだろう?
藤田美早である。
「だれ?」
美早からは顔までは見えないらしい。
「俺だよ。碇」
なぜか小声になってしまったが碇が答える。
「何?」
美早が無愛想に答える。
どうも様子がおかしいが、いつものことと割り切る。
「いや、満芽が飲みすぎたらしくて酔っ払っちゃったみたいなんだ」
「誰でもお酒を飲めば酔うわよ」
無愛想さに輪がかかるが悪意はないのだろう。
「えっと、酔いすぎた……かな、満芽のベッドは?」
満芽はもう寝息を立てはじめている。
美早が一番ドアに近いベッドを指差す。
碇は満芽をベッドになんとか寝かせてやる。そのあいだ美早はずっと最初の場所で立ったまま碇のことを見つめていた。
「碇」
碇がそのまま回れ右をしようとすると美早が声をかける。
「あんた、満芽のこと……はっきりしなさいよね」
碇の予期していない言葉を言われる。
碇はどうしたらいいか考えるが結局とぼけて部屋を出る。
言われたことが何かはよくわかっている。俺だって馬鹿じゃないんだ。美早と満芽が仲がいいことから考えると、そういった話をしていることも変ではない。
いや、満芽の性格から考えると彼女から話題を振ることはないだろうけれど、美早から問い詰められることはあっただろう。
知っているよ。
満芽が俺のことを好きなことくらいは、これだけ長い間一緒にいるんだ。
気がつかないほうがどうかしてるだろ。
でも、はっきりすれば壊れてしまうこともあるだろう?
それは関係がじゃない。自分が壊れることはないけれど、満芽はどうだ?
今のままでいいならそれで……。
4
階段を下りると青山静と東雀、小道鳴が玄関から出て行くところだった。
「あれ、どっかいくの?」
「いや、風にあたりに行くだけだよ。それに星も見ておきたいしね」青山が答える。「上屋敷先輩が一人だから行ってあげれば?」
小道鳴と東雀は疲れた様子だ。佐々木先輩の相手をして体力を消耗したところを青山が救い出したといったところだろう。
碇は入り口のドアが閉まるのを見届けてから、リビングへと戻る。
佐々木剛太は相変わらず大声で何か話しているが、六澤瑠璃がそれについていっているのには驚きだ。
上屋敷了は足を色っぽく投げ出し、酒のビンのラベルに書かれた文字を興味深そうに読んでいる。
「何か面白いことでも書いてありますか?」
碇が彼女の目の前に腰を下ろすと顔を上げて笑顔を作る。その笑顔に胸が一つ大きく打つ。
「ああ、なにもないよ」
「じゃあ、何見てたんですか?」
「見ようとはしたけど見えなかった。残念だ」上屋敷了はビンを置きながら本当に残念そうにしている。「そうだ、清浄は大丈夫だった?」
「ええ、困ったやつですよね。今日はそんなに飲んでいなかったと思ったんですけど、ぐでんぐでんでしたからね」
碇が答えると上屋敷了が笑う。
「ぐでんぐでんっていいね」
「良くないですよ! やっぱりこういった雰囲気がいけなかったんですかね」
「アルコールよりかも酔いやすいものはなんでしょう?」
上屋敷了が人差し指を立てる。
「え、クイズですか?」碇はアルコールでぼーとする頭を働かせる。「えー……と。重力とか、物理現象でもよいますよね。自分の三半規管の認識と実際の動きに誤差がある場合とか……」
上屋敷了が唇の片方をを魅力的に持ち上げ白い歯が見えるか見えないかのところで笑顔を作る。
「ぶっぶー」
また、いたずらっぽく口の前に人差し指を持ってくる。
碇は思う。どうしてこの人はこんなにも魅力的なんだろう?
「正解は未来でしたー」
彼女は碇が不思議そうな顔をするのを見てくすくすと笑う。
「なんですか、それ?」
上屋敷了がそれに答えた。
「人がなんで生きていると思う? わからない未来にも何か自分の理想像を描いてその未来に酔っているからじゃない? ここまで物理現象が解明されて寿命や病気など自分が死ぬ理由まで分かっちゃってる。生きていても何かあるわけじゃないことも気がついている。それなのにどうして生きていられるわけ? もしかして、生まれて意識が芽生えた時から私たちは本当は酔い続けてるんじゃないかしら。戦争が起ころうが、事故で死のうが、新しいエネルギーが発見されたとしても、それがなんだというの? 社会の成長? そんなものに協力して何が得られるの? そこに意味を与えるのは結局は自意識でしかない。それにすら気がつかない人間すらいるわ。だから、人は皆酔っているの、限りなく確定的で不確定な未来に」
そのことを楽しそうに述べる上屋敷了に碇は旋律を覚える。
彼女は頭がいい故に結論を導き出してしまったのだ。でも、彼女の様子から悲観は伺えないところをみるとそれが彼女の研究テーマとなっていることが分かる。
「上屋敷……さん」なぜか先輩という言葉を使いたくなかった。「よく無事でしたね」
上屋敷了はグラスを空ける。
「どうかな、無事じゃなかったかもしれない。ただ、そう……これはミステリーだな」
つづくよ!!!
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「 I rony 」 連載式 著 四年生:ジェバンニ (副部長) |
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プロローグ
「美咲、僕らは今日でお別れなんだ」
「……」
彼女は何も答えない。ただ虚ろな目でどこともつかない場所を見つめている。
辺りは暗い。さっきまではしんしんと雪が降っていたが、今では雨にかわってしまった。僕は傘も差さず、彼女の何も映さない瞳を見つめて言葉を紡いだ。
「僕は美咲とは一緒に行けないんだ。ごめんね。僕は一緒に暮らしたいんだけど、美咲は今日から違う所で暮らさなきゃいけないんだ」
「……」
聞こえているのかもわからない。
それでも僕は話し続ける。
今日を境に別れなければならない彼女に。
「美咲はね、心が病気にかかってるんだ。だから、これからはそのお医者さん達と一緒に暮らすんだよ」
僕は膝をつき、彼女の傷だらけの身体をそっと抱き寄せて言った。
美咲。僕の妹。
今年で九歳になるというのに、その発育は実年齢のそれよりもさらに幼い。
母が食事を与えなかったからだろう。身体の成長が遅いのだ。
「だから美咲、僕らはしばらく逢えなくなってしまうんだ。―――でも、これからはその…殴られたりすることも無いし、周りは優しい人ばかりになるから、きっと大丈夫だよね?」
「……」
返事はおろか、頷くことさえしない。否、出来ないのだろう。
僕が話すのを止めると、途端に周囲のざわめきが耳に入ってくる。
「出て行くみたいね。あの子」
「お母さんに刺された子でしょう?」
「やっと厄介者の一家がいなくなるのね。お兄ちゃんの方も出て行くんでしょう?」
同じアパートに住んでいる人たちが、僕らの噂をしているみたいだ。
背後にある古びたトタン屋根の小さなアパートの一室には、つい一週間前まで僕と妹、そして母さんが住んでいた。
一家、と、僕らは呼ばれたけれど、その言葉から感じられる優しい意味合いは、僕ら一家には当てはまらないように思う。
家にいて聞こえてくるのはいつも彼女の悲鳴と、母の怒声だった。
僕の名前は広江心護。
彼女の名前は広江美咲。旧姓を篠原美咲と言った。
僕と美咲は、二人きりの兄妹ではあるけれど、血は繋がっていない。
僕は父の連れ子で、美咲は母の連れ子だった。
父と母は両者ともに離婚暦のある、バツイチ同士で再婚をしたのだ。
美咲が三歳、僕が十一歳の時に。
再婚してしばらくは、幸せだったように思う。
けれど父は女性にだらしのない人で、再婚後、一年もしないうちに他の女とどこかへ行ってしまった。
そのあたりからだろうか……。母が壊れ始めたのは。
母は父が出て行ってから、人が変わったように静かになってしまった。それまで僕が見てきた母は、歌が好きで、太陽のように明るい人だったのに。
母は食事をいつも四人分用意した。父がいつ帰ってきてもいいようにと。
そしていつも夜遅くまで、父の帰りを待っていた。
僕にはわかっていた。父は僕をこの人に押し付けるために再婚したのだ。だから、もうきっと二度と、ここへは帰ってこないって。
父が出て行ったから僕もここにはいられないと思っていたけど、母は血の繋がりのない僕を見捨てずに世話してくれた。
僕が中学校に入って、背が伸びてくると、父に似ているからだろうか、母は僕を溺愛し、かわりに美咲を邪険に扱うようになった。虐待、ネグレクト、昨今珍しくも無い単語だが、僕の家では毎日のようにその忌まわしい行為が行われていた。まだ幼い妹にだけ……。
「美咲、寒くない?」
僕はこの寒空に降る雨の中、薄着でコートも着ずにいる包帯だらけの妹に、着ていたコートを着せた。雨で濡れてしまっているし、美咲もずぶ濡れだからあまり防寒着としての効果は望めないのかもしれない。けれど僕は美咲にコートを着せた。ただ何かしてあげたかった。一緒に生活している間、兄らしいことは何もしてやれなかった。守ってあげることも出来なかった。
「……」
僕と美咲は、血は繋がっていないけれど、それでも兄妹で、家族だ。父も母もいなくなってしまったから、今はこの世でたった一人の家族だ。
けれど、明日からは別々に暮らさなければならない。
一週間前、僕が学校から帰ってくると、母は美咲の腕を包丁で刺していた。
隣人達の噂通りに。
「美咲」
呼んでも返事は無い。
閉じられた口は不動、暗く沈んだ目が僕と合うことはない。
僕はため息をついた。
「美咲……」
僕はもう一度、美咲のガリガリで傷だらけの身体をそっと抱いた。
力いっぱい抱きしめたかったが、美咲の身体には痛々しい傷が無数にある。その中には母に刺された傷もあるのだ。そんなことをすれば傷が開いてしまうかもしれない。
「……」
冷たい。ずぶ濡れだからというわけでは無い。
体温が感じられない。まるで氷で出来た人形でも抱いているみたいだった。
心が凍ってしまったら、身体も凍ってしまうんだろうか?
目頭が熱い。僕は泣いているんだろう。
潤んだ目で彼女の全身を見つめた。
服で見えないけれど、不健康に細い身体は全身傷だらけ、顔色も悪い。
これが同じ空間に暮らしていながら、母の美咲に対する虐待を止められず、傍観するだけだった僕の責任であることは言うまでもない。
僕を溺愛した母。
妹への虐待が始まった頃、僕が止めに入るとその時だけは妹への暴力を止めてくれた。
けれど母は、僕に庇われた妹に嫉妬してさらに酷い暴力を振るった。僕の見ていないところで。
どうしたらいいかわからなかった。もちろん公の機関に頼ったこともあった。
それでも母の暴力は止まらなかった。
妹の悲鳴が聞こえる度、耳を塞いだ。目を閉じた。
僕は母に逆らわなかった。母は僕には優しかったし、可哀想な人だったから。
いつしか僕は妹が傷つけられるのを傍観するようになった。
当たり前の日常として受け入れてしまった。
妹なんていないものだとさえ思ったこともある。
母は僕と美咲が仲良くしているのが気に入らないようだったから、極力、関わらないようにもしていた。
美咲には辛かっただろう。唯一、自分を守ってくれた兄が、自分を見捨てたのだから。
僕は僕で苦しかったけれど、そんなものは美咲の苦しみに比べれば微々たるものだ。
けれど、そんな日々も今日で終わる。
「心護くん、そろそろいいかい?」
傘を差した、スーツ姿の人の良さそうな男が僕に声をかけた。
児童相談所から派遣されてきた人で、名前は橋本さんというらしい。
母と決別した僕らは、これからそれぞれ新しい場所で、新しい生活を始めることになる。
僕はここを追い出されてしまったから、高校に通いながら新しい住まいで一人暮らしをする。部屋はもう決まっている。
美咲はどこか遠くの病院で、心の治療をする。
一週間前の事件の後、目まぐるしく僕らを取り巻く環境は激変した。
これからは別々のところで、違う環境で生きていくことになる。
「橋本さん、もう少しでいいんです。せめて一言でいいから美咲の……」
「心護くん、今は…諦めなさい。美咲ちゃんは心を閉ざしてしまっている。今はその一言だって苦痛を伴うんだ」
「でも」
「心護くん」
「……」
わかっているんだ。でも、一言、一言だけでいいから……。
「もうそろそろ病院に行く時間なんだ。それに雨も酷い。二人とも風邪をひいてしまうよ。傘も差していないんだから」
「……」
僕は俯いた。逆らえない言葉だった。
「二度と会えないわけじゃない。ただ少しの間、別々に暮らすだけだよ」
「少しって……。どのくらいなんですか……?」
僕は俯いたままで聞いた。
「美咲ちゃんの病気が治るまで」
橋本さんは僕の目を真っ直ぐに見据えて言った。
「……」
僕は思った。
そんなもの、いつになるのかわからない。
みんなが同じことを言った。
医者も、警察も、新聞も。
妹の心は壊れていると。母の暴力で壊れてしまったのだと。
治すには多大な時間がかかるんだ、と。
「さぁ、もう行かないと。心護くん、お別れを……」
悔しさがあったように思う。
今は無力な自分より、橋本さんや、僕の知らない他人の方が美咲の力になれることが。
でもそれは仕方の無いことだ。僕はまだ子供で、社会的に自立してもいない。
何も……出来ないのだ。
「美咲」
「……」
やはり答えてはくれない。
僕は水たまりのアスファルトに膝をついて、美咲をまた抱きしめた。少し痛かったかもしれない。
「美咲、必ず……迎えに行くから……僕が大人になって、君を護れるようになったら……」
それは決心だった。
普通の子供らしい生活、幸せ、健康な身体、そして言葉と心さえも奪われてしまった悲しい子供。僕には向けられなかった母の感情を一人で引き受けて、壊れてしまった。兄である僕にも、それは分け与えられるはずだったのに。
今の僕は、彼女の犠牲の上にあるのだ。
助けようと思った。償おうと思った。一生を賭けてでも、彼女のために。
「君の病気が治ったら、また一緒に暮らそう」
君は僕を恨んでいるだろう。何もしなかった兄を……。何も出来なかった僕を……。
「必ず、迎えに行くから……」
今は何の力もない、ただの子供の僕に、君を助ける術は無い。
だけど大人になったら、きっと今までの不幸を帳消しに出来るくらいの幸せを、必ず君にあげるから……。だから……。
「だから今は……。さよなら、美咲……」
「……」
美咲は何も言ってくれなかった。
「……」
僕はそれ以上、何も言えなかった。
泣いていた。思えば雨が降り始めてからはずっと泣いていたように思う。
「それじゃ、心護くんも風邪をひかないように」
美咲を車に乗せて、車で待っていた女性に美咲の着替えを頼んだ後、橋本さんは僕に言った。
「大丈夫だよ、必ず治る。時間はかかるだろうが――。君が大人になる頃にはきっと治っているよ。だから美咲ちゃんのことは心配しないで、君は君の心配をしなさい。君だって、これから先は大変なんだ」
「僕は……大丈夫です。美咲が護ってくれたから。必ず立派な大人になって、美咲を迎えに行きますから、それまで……、それまで美咲をお願いします」
「わかった。頑張るんだよ」
橋本さんはずぶ濡れの僕の頭を撫でた。僕には無い、大人の手がそこにあった。
「じゃあ、もう行くよ」
「はい」
橋本さんは車に乗ると、窓を開けて僕に言った。
「コートはいいの?」
「いいんです。美咲にもっていってもらいたいので……」
僕は嫌われているかもしれないけど、恨んでくれてもいいけど、忘れることだけはしないで欲しいから……。
「そう、それじゃお別れだ、心護くん」
「……はい」
僕は窓の外から美咲を見た。今日を境にしばらく逢えなくなる最後の家族を、目に焼き付けるように。
車がゆっくりと走り出した。
「美咲!」
遠ざかっていく車に、僕は叫んだ。
雨が声をかき消した。
いつの間にこんなに強くなったのか、ぱらぱらと小降りだった雨が今ではどしゃ降りだ。
冷たい、冷たいけれど、この雨でさえ、僕には暖かく感じられた。
氷のように冷たかった美咲の身体に比べたら、こんなものは熱湯にさえ感じられる。
青あざの顔、毟られた髪、虚ろな瞳。
僕はそれらを癒す全てを他人に任せたのだ。
情けない。
そんな僕が、別れを告げた後に、彼女に何を言おうというのだろう。
僕はしばらくそれを考えていた。美咲を乗せた車が見えなくなっても、ずっと考えていた。答えは出なかった。
「必ずまた……一緒に暮らそう…美咲」
呟いて、美咲が去っていった道に背を向けた。
そうして僕らの道は別れた。
高校二年、冬も終わりのことだった。
1
平日の真昼間、紅茶のおいしいことで有名な喫茶店で、そわそわと落ち着かない様子でコーラなんかを飲んでいる、なんとも場をわきまえない男がいた。
それが僕、広江心護だ。
あれから六年。僕は二十三歳になり、社会人として働いていた。
仕事は有休をとった。なぜなら今日は妹の美咲が施設を出て僕に会いにくるからだ。
美咲に会うのは実に六年ぶりのことだ。六年前のあの日、美咲と別れてから僕は一度も美咲に会わせてはもらえなかった。事件の当事者との接触は避けるべきと考えた指導員と医師の判断だそうだ。もちろん歯痒く思ったが、結果的にはそれでよかったのだと思っている。美咲に逢えなかったことが僕の意思をより強固なものにしてくれたような気がするからだ。
この六年間は、決して平坦なものではなかった。しかしそれでもこうして経済的に自立して、美咲を引き取ることを認めてもらえるところまでこられたのは偏に、美咲を今度こそ幸せにするという目的があったからだ。
「ここ、いいですか?」
若いのにスーツに着られることなく見事に着れている、仕事の出来そうな美女が僕に声をかけた。向かいの席に座りたいようだ。
「あ、ああ、すみません。連れが来るんで――って、由真か……」
六年ぶりに美咲に逢えるからか、今の僕には落ち着きというものがない。ついでに正常な判断力も失くしているらしい。待ち合わせをしていた旧い友人の姿も、軽い悪ふざけも見抜けないほどに。
「ごめんね、待たした?」
中学時代からの付き合いである友人、近江由真はそう言うと僕の向かいに座った。
「いや、どうだろ、十分くらいは待ったのかな?」
ここに来てからどのくらい時間が経ったのかもわからない。到着したのは十時半頃だったと思う。待ち合わせの時間は正午だ。時計に目をやると現在時刻は正午五分前だった。
「何それ? 大丈夫? 頭、回ってる?」
「あ、いや、多分……回ってない」
「そんなに緊張してんの? 昨日ちゃんと寝れた?」
「あんまり寝れなかった」
「でしょうね、心護、ガチガチよ? 今」
そうなのだ。僕は今ガチガチに緊張している。当然だ。昼の二時、つまりあと二時間後には美咲と六年ぶりの再会だ。兄妹とはいえ緊張しないわけは無い。それに今日は美咲が僕と暮らすことに同意してくれるかどうかがかかっている大事な日なのだ。橋本さんを含む児童福祉関係の人たちは、今の僕になら美咲を引き取る資格があると認めてくれたが、美咲は僕が今どんな風になっているか、正確なところを知らない。だから今日は美咲が僕を認めてくれるか、僕が保護者になることを許してくれるかがかかった大事な日なのだ。僕の六年間の半分はこの日のためにあったと言っても過言ではない。
「そ、そうなんだ。僕、今、かなり不味いんだ。なんか落ち着かなくて……」
「まあ、六年ぶりだもんね。当たり前か」
「うん」
「美咲ちゃん、もうすぐ高校生か」
美咲は四月から高校生になる。数日前、中学では卒業式があり、今、美咲は春休みだ。
四月、中学の正確な卒業は三月の末日だ。四月一日をもって、美咲は高校生になる。そして、中学の卒業と同時に妹の住所は僕と同じになる――予定だ。美咲が今日僕を認めてくれればの話、ということになっている。
「美咲ちゃん、高校生になるってことは、もう大丈夫なんでしょ?」
由真が言っているのは美咲の心のことだ。由真は僕達兄妹の人に言いづらい過去を知っている。僕らの事件はあの当時、かなり世間を騒がせた。メディアに名前こそ出されなかったものの、近所に住んでいた人々はみんな知っていたし、高校では話題になりすぎてそれなりに辛い目にもあったものだ。事件からしばらくの間、マスコミは毎日のように僕の所に来た。僕は何も喋らなかったけれど、事件のことを聞かれるたびに僕の心は疲弊していった。そんな時、僕を支えてくれたのは彼女を含む数人の友人達だった。
「ああ、指導員さんの話だと、すっかり明るくなったらしい」
「へぇ、あの美咲ちゃんがねぇ」
にわかには信じ難いことだった。僕の知っている美咲はいつもびくびくしていて、引っ込み思案で、笑ったことなんてほんの数回しか見た事が無い。そんな子供だった。性格が明るくなったなんて想像もつかない。何より別れ際のあの生気の無い顔ばかりが強く印象に残っている僕にとって、そんな美咲の姿を想像すること自体が無理な話だ。
けれど、その姿はきっと、僕が切望してやまないものなんだろう。
「ところで心護、私も何か頼んでいい?」
由真がメニューを見ながら言った。
「ああ、いいよ」
「あんたの奢りよ? 私だって忙しいのに、妹に会う前の最終チェックのためだけに呼び出したんだから、そのくらいは当然よね?」
「うん、いいけど。って就職してからはいつも僕の奢りじゃないか。そういうのは一度でも自分で払ったことがある奴が言うんだ」
「いいじゃない。一流企業に勤め、株では大儲け、さらにはマンションまでお持ちの心護サマには大した出費じゃないでしょ?」
「……自分だって相当稼いでるくせに……」
僕は恨みがましく言った。
美咲と別れてからの僕は、とにかくお金を稼ぐことに執着した。それまで高校生としてそれなりに頑張っていた部活動や、友人達と遊ぶ時間も惜しんでアルバイトに励んだ。自分の生活や進学のためにお金が必要だったということもあったが、一番の理由は美咲のため、美咲の病気が治って施設を出たとき、また一緒に暮らすために、僕はある程度の財を持っていなければならない。そのために、高校生のうちから貯蓄に励んでいたのだ。
もちろんそれだけではない。いくらお金を貯めたって、アルバイトで稼げるお金なんてたかが知れている。それに橋本さんと約束したのだ。
必ず立派な大人になって、美咲を迎えに行く、と。
別にその限りじゃないが、当時の僕が考える立派な大人というのは、やはり一流の大学を出て、一流企業に勤めて、社会的な信用を持っていて、品行方正な人のことだった。
だから僕は勉強も頑張った。そのかいあって、国立大学の奨学生として、さしたる金銭的負担も無く大学に進学し、就職活動にも成功し、無事卒業することが出来た。
僕は経済学部に籍を置いていたこともあって、株にも関心を持っていた。株で大金持ちになろうなんて考えは持っていなかったが、本来大学の学費に当てるつもりだったお金が奨学金制度を利用したことで浮いてしまったので(もちろん後で返すのだが)、その中で失くしても痛くない程度の金額で、気まぐれに株を買ってみたのだ。もちろんそれなりに勉強もしたし、それなりに有望な株に目をつけて買ったのだけれど、まさか本当に……。僕の買った某IT企業の株価は爆発的に急上昇し、最高値の時に僕はそれを売却し、二十一歳にして一財産作ってしまった。そのお金でまた株を買い、順調に行った結果、僕はこの度、二十三歳にして都内の良物件マンションの一室を買うという暴挙にでることができた。
株なんかに頼らない堅実な計画ではマンションを買ったりするのはまだ少し先になると考えていたが、運もあったんだと思う。もしくは神の恵みが与えられたのだ。美咲と僕が新しい生活を歩むのに最高のタイミング。神と株式市場に感謝しておくべきだと思う。
「私はあんたほど稼いで無いわよ」
「嘘ばっか、社会人一年目で外車乗り回してるのなんか由真くらいだよ」
「中古よ、あれ。まあでも一般的な日本車の新車買うよりは高かったけど」
「ほら、やっぱり」
「まぁね、塾業界は人気と手腕次第で給料上がったりするから。ほら、私って生徒に人気あるし☆」
「……そう、よかったね」
「信じてないでしょ?」
「まぁね」
「若くて美人で聡明な女教師、近江由真! コレで人気でないほうがおかしくない?」
「……」
由真は確かに綺麗だ。街を見回してもこのレベルはちょっといない。学生時代はすごくモテていた。由真は自分が美人だと知っているから、敢えて遠慮せずにそういうことを言う。由真曰く、「誰が見たってそう思うんだから、謙遜したら逆にいやらしい」らしい。
「こら、なんで黙る? それともその沈黙は信じたと受け取っていいの?」
「まぁ、それでいいよ」
「んふふ、よろしい」
由真は上機嫌で再びメニューに目を落とすと、ウェイトレスを呼んでダージリンティーとクラブハウスサンドを注文した。
注文したものが来るまでの間、僕らはお互いの近況を報告し合った。
僕の方は、仕事はそれなりに順調であること、先週から買ったマンションに住み始めたこと、マンションの窓から見える夕陽が綺麗であること。
由真のほうは、学習塾は夜がメインのため、昼間は特に何も無ければ暇だったりすること、生徒が生意気なこと、同僚にイケメンがいないことなど、ほとんどいつもの愚痴だったけれど、そのおかげで僕は肩の力が抜けた。やっぱり美咲に逢う前に由真に逢っておいてよかった。
彼女といると、僕は落ち着くのだ。
「お待たせいたしました」
ウェイトレスが料理と紅茶を運んでくると由真は、
「イタダキマス! 実は朝ご飯まだだったの。ほら、私いつも起きるのお昼過ぎだから」
と、いかにも自分はあなたのために早起きして食うものも食わずにここに来ました。と、言わんばかりの恩着せがましい発言をした。
「……そりゃ悪かったね」
「ん、気にしなくていいよ。また今度おごってくれればいいから」
笑顔で言うと、由真はクラブハウスサンドを口に運んだ。とてもおいしそうだった。
由真の食事が終わると、僕は本題に入った。
「突然意味わかんないと思うんだけど、由真、僕は由真から見てどう?」
「どうって?」
やはり意味がわからない、といった感じに聞き返してきた。まぁ、それもそうか。
「美咲の信用を得られるくらい、立派な大人になれているかなってこと」
そう、ぼくはそれを聞きたかったのだ。自分ではそれなりの人間になれたつもりでいる。けれど自分の見解だけでは不安なのだ。他人からも同じように見えるか、それが気になっている。そんなのわざわざ呼び出さなくたって電話で聞けばいいのに、とは自分でも思う。けれどやっぱり面と向かって言ってほしいのだ。僕の昔を知っている由真に。
「そうね、私から見たらまだまだ至らない所ばっかりだけど……」
「そう……」
「でも、美咲ちゃんのために努力して、ここまで来た心護、私は立派だと思う」
「由真……」
「だから、自信もって行って来い! 広江心護!」
「うん」
「っていうようなことを言ってほしいの?」
「おい!」
まったく、ベタなことを……。
「でも、本当に立派だとは思ってるよ。ちょっとその事に突っ走りすぎて、他の事を置き忘れて来ちゃってるようにも思うけど」
由真は真面目な顔で言った。
「心護、美咲ちゃんのことばっかりで、自分のこと、色々諦めたでしょう?」
僕には由真が何を言いたいのかわかっていた。
「陸上のことならいいんだよ。どうせ続けてたって、一番にはなれなかったよ」
「嘘。知ってるよ、私。選手兼マネージャーだもん。心護の1500mの自己ベスト、あの年の全国優勝者のタイムと『ほとんど』同じだったでしょ」
陸上をやっている人間ならその『ほとんど』が順位にどれだけ大きい差をもたらすかはわかっているはずだ。由真はそれをわかった上で言っている。また、『ほとんど』を使うということは当然僕のタイムは優勝者よりわずかに劣っているのだ。
「練習のベストと大会は違うよ。むしろ大会で自己ベストのタイムが出せる選手なんて稀なんだ。だから一番は無理だよ」
大会で自己ベストを更新することは難しい。これは一般に言われていることで、僕も異論は無い。なぜなら僕は大会で一度だって練習よりいいタイムを出したことが無いからだ。また、これが当たり前とするなら、件の大会で優勝した選手は練習ではもっといいタイムを持っていることになる。力を出し切れずに走って僕の自己ベストと同じなら僕に勝てる道理はない。由真だってもちろんそれはわかっているのだ。
「そうかもしれないけど、でも、私は走ってほしかった」
「……」
由真の言うとおり、僕は高校時代、陸上部に所属して長距離をやっていた。背の高い僕に長距離は向かないと言われてはいたけれどそれは大した問題にはならなかった。
それなりに速くて、一年生のうちから全国大会に出たりして、それなりに活躍していた。
二年生の頃には全国でも名前が知られるようになって、三年生の頃には陸上部を辞めていた。
あの事件があって、僕を取り巻く環境が変わって、アルバイトを始めたからだ。
陸上部の選手兼マネージャーで、いつも僕を応援してくれた由真には申し訳なかったけれど、僕は一応の夢と由真の期待を裏切ったのだ。
「って、今更だなー、やめよっか。今はそうまでしてやっと取り戻しかけた心護の大事な妹さんのことを考えよう」
「……うん」
正直、おもしろい話題ではない。僕の中ではもう終わっている話なのだ。考えてみれば僕がそんな風に、普通の高校生らしい時間を生きられたことだって、美咲が犠牲になってくれたおかげなのだ。美咲には何もさせなかった分、母は僕には何でもやらせた。陸上もそんな中の一つだった。部活動と言うのは、特に運動部はお金がかかるものだ。母親一人の稼ぎで暮らしていた当時の僕達には、決して無視できない負担だったろう。それでも母さんは僕が競技用のスパイクを欲しいと言えば凄く高い物を買ってくれた。
「問題はどうやって信頼を得るかよね」
「うん」
「とりあえずデートコースはこの紙に書いておいた」
そう言って由真はバッグからメモ帳を取り出して、デートコース(?)の書かれたページを破ってよこした。そんなこと頼んでいないのだが、由真は気がきく。僕がそういうことに疎いのを知っているから、考えてきてくれたのだ。
「で、デートコースって……」
「メールでもよかったんだけどね、手書きのほうが楽だし」
楽、という割にはお店の特徴や雰囲気までわかりやすく書いてくれている。きっと美咲のために由真も頑張ってくれたんだろう。それにしてもデートって……。兄妹で街を歩くこともデートって言うんだろうか?
「美咲ちゃん、ずっと病院と養護施設だったんでしょ? それなら外で楽しく遊んだ経験なんてそんなに無いと思う。だからしっかり豪遊させてやること」
「豪遊って……」
「いいのよ、美咲ちゃんにはわがままも言わせてあげて、思いっきり贅沢させてやるの。頼れる大人の条件の一つには金! これも大事なんだから、それを嫌味にならない程度に見せ付けつつ、包容力っていうか、懐の深さをアピールするのよ」
それはそうだろうが、由真が言うと何か打算的な感じがして若干嫌だった。
「まぁ、頑張ってみるよ」
「とにかく基本はその紙に書いてある通りでいいと思う。地理はわかるでしょ?」
「うん」
大丈夫、それなりに土地勘はある。
「あとは美咲ちゃんの希望に沿ってアドリブで何とかしなさい。あ、あと、その紙、暗記しなさい。忘れたら見てもいいけど美咲ちゃんに見られちゃダメだからね」
まあ、当たり前か。アドリブも大丈夫だと思う。僕だって何日も前からこの日のために色々考えてきたのだ。
同じ女性である由真の組んでくれたプランを優先して、後は美咲の希望で好きな所に連れて行ってあげる。そんなところに話は落ち着いた。
「うん、ありがと、由真」
僕はいつも世話を焼いてくれる旧友に感謝の気持ちを込めてお礼を言った。彼女には昔から世話になりっぱなしだ。
「また貸しが増えたね。今度は家でも買ってもらおうかな」
「ちょ、それは……」
冗談を交えつつ、僕らは再び雑談に戻った。
「さて、そろそろ行くよ」
時計は一時半を刻んでいた。待ち合わせ場所はここから徒歩で十分くらいのデパートの壁にはめ込まれた大型ディスプレイの前だ。この辺りでは目立つ場所だけに待ち合わせに使う人も多い。
「うん」
立ち上がって僕は由真に聞いた。
「僕、このスーツ、変じゃないよね?」
「うん、大丈夫」
「顔とか髪とか大丈夫?寝不足続きだから目にクマとかあるかも」
「大丈夫、いつも通りの美形よ」
僕の顔は一般的に見るといわゆる美形らしい。記憶にある父も、そういえば整った顔立ちをしていた。だからこその女ったらしだったのだろう。僕は父に似た自分の顔があまり好きではなかった。
「何か変なとこないよね?」
「もう! しつこい! 女子高生かあんたは! 大丈夫っていったら大丈夫よ!」
「ご、ごめん」
よし、由真がそう言うなら大丈夫。
会計を済ませて店を出ると、由真が僕に言った。
「やっとだね、心護」
「うん」
長かった。ここまで来るのは。
「よかったね」
「うん」
そう、僕はやっと美咲に逢える。
「それじゃ、行ってらっしゃい。ヘマすんじゃないわよ」
美咲は僕を許してくれているだろうか。そんなわけは無いと内心ではわかっている。思えば僕は幼い美咲には嫌われていたようにも思う。半端に護り、一度は見捨て、取り戻そうとしたときには遅かった。そんな兄だ。嫌われていても仕方ない。それでも美咲は今日僕に逢うことを承諾してくれたのだから、どんな感情であっても僕に思うところがあるのだろう。僕は怒られてもいい。恨み言を言われてもいい。殴られたって構わない。受け入れてみせる。
僕は今日、やっと君に逢えるんだから。
「うん、行ってきます。由真も仕事、頑張って」
由真に手を振って僕は歩き出した。美咲に繋がる道だ。今度は見送るだけじゃない。僕が迎えに行くんだ。
いつも通る道だけれど、僕はしっかりと踏みしめるように歩いた。六年間で地に足をつけた僕が背中を押してくれていた。
2
一つ問題があったかもしれない。僕はこの人ごみの中から美咲を見つけられるのか?
美咲には僕の写真の入った手紙を何度も出しているから、僕のことはわかると思う。
けれど僕はこの六年間で成長した美咲の姿を一度だって見ていない。僕の出した手紙は返事を求めるような内容にはなっていない。ただ遠慮していたってわけじゃない。返事を求めるのが怖かったのだ。美咲はきっと僕を嫌っている。実際はどうなのかわからないけれど、少なくとも僕はそう思っている。手紙の返事を求めてそれが返ってこなかったら、それは美咲が僕を許していない、嫌っているということをリアルにつきつけられたようなものだ。僕はそれが怖かった。覚悟はしているつもりだがやっぱり怖かったのだ。
(大丈夫、きっとわかるさ)
それに考えてみれば、僕に美咲がわからなくても、美咲が僕を見つけて声をかけてくれればいいだけだ。大したことじゃない。
(けど、六年ぶりとはいえこれから保護者になろうっていう兄が妹に気づけなかったら、美咲は怒る、というか失望するだろうか……)
そんな風に僕が考え、何とかして美咲の六年前の姿から今の美咲を想像してみようと努力し始めた頃、駅の近くということもあり、人通りの激しいこの場所で突然人ごみが割れた。
この場にいるすべての人が『彼女』を見た。待ち合わせをしていた人も、通りすがっただけの人も。もちろん僕も。
輝くような美少女。そう表現するのがいいと思う。容姿だけじゃない。その表情にもなにか自信のようなものが感じられる。
『彼女』は濡れているのではないかと思うほど艶やかな長い黒髪をなびかせて歩く。
(綺麗な女の子だな)
僕は素直にそう思った。若い頃の由真みたいだ、なんて言ったら由真は「まだ若い! ぶっ殺すよ!」とか言って怒りそうだ。でも、いるもんなんだなぁ、こういう子、と思った。
けれど今の僕にそんなことは些事だ。良い目の保養になった、と『彼女』のことは思考から切り捨て、再び美咲のことを考える。
時刻は二時三分。待ち合わせの時間は過ぎている。携帯電話を取り出してみる。しかしその行動に意味は無い。今時の中学生なら携帯くらい持っている子の方が多いのかもしれない。けれど美咲は携帯電話なんて持っていない。当然だ。施設で生活している美咲が携帯なんて持っているはずが無い。
結局、僕は自分の腕時計と携帯電話の時計の時刻のズレを確認しただけですぐにスーツのポケットにそれをしまった。ズレは七秒だった。
辺りを見回してみる。周囲の人々は相変わらず『彼女』に視線を釘付けにされているみたいだけど、僕にはそれは関係ない。百八十センチ後半の、人並みより高い視点で美咲らしき人物を探す。同じ年頃の子ならたくさんいる。けれどどの子も僕の想像する美咲とは重ならなかった。
すぐ隣で人を待っているらしい男と目が合った。視線をそらした先で今度は犬を連れたおじさんと目が合った。というか、気が付くとみんなが僕を見ていた。現代日本は東京で人を凝視するとは珍しい。うーむ、どうしたのだろう。
「こんにちは」
突然、可愛らしい女の子の声でどこからか挨拶をされた。
「え? あ、はい、こんにちは」
と、つい反射的に、マヌケに返してはみたものの、僕は誰に挨拶をされたのかわからず、辺りをキョロキョロと見回す。誰だろう? それらしい人は見当たらない。
「ちょっと、下、もうちょい下」
下、と言われて下を見てみると――。
大衆の視線を釘付けにしていた『彼女』がそこにいた。僕は背が高いので、身長の低い『彼女』は視界に入らなかったのだ。
「こんにちは」
僕と目が合うと『彼女』は再び言った。
「え? あ、はい、こんにちは」
先ほどの焼き増しだ。ああ、なるほど、この子が僕の近くにいたからみんな僕の方を見ていたのか。でも、この子は何で僕に挨拶を? こんな綺麗な子が僕に何の用があるんだろう? まさかナンパでもないだろうし。
「何か言うことはないの?」
『彼女』が半目で僕を睨みながら言った。
「え、あの、えーと、とりあえずごめんなさい」
謝ってみた。
「なんでよ! バカ!」
怒られた!
一体なんだというのだろう。何か言うことは? と言われても、突然見知らぬ人に挨拶されて何を言えと言うんだろう?
「もう! なんでわかんないのよ!」
なんか怒ってる!
「ご、ごめん、でも僕、君が何を言ってるのかわからないんだ……」
正直に言ってみた。
「はぁ? 語学力ないの? 日本語よ? そんなんでよく国立大に入れたわね」
――。なんでこの子はそんなことを知っているのか? と考えたところでようやく僕は気がついた。
「君、美咲?」
まさか、という思い混じりに聞いてみる。引きつったような笑顔で。
『彼女』は大きくため息をついてから言った。
「そうよ、久しぶりね、お兄ちゃん」
「!!!」
マジですか、そうですか、僕はあなたのお兄ちゃんでしたか。
ビシッ、と音を立てて僕の引きつった笑顔は凍りついた、ような気がする。
凍りついたのには三つの理由がある。まず今の美咲が僕の想像とかけ離れすぎていたこと。そりゃこんなに綺麗になって、しかもお転婆そうで……。橋本さんから明るくなったと聞いていたとはいえ、これじゃあ僕の記憶と重なるわけが無い。二つ目は美咲がちょっと口が悪く育ってしまったこと。橋本さん……あなたに任せたのは間違いだったのでしょうか――。三つ目は僕が美咲にすぐに気づけなかったこと。危惧していたことではあったけれど、実は見ればわかるという自信があっただけにまったくわからなかったショックは大きい。さらに予想通り、美咲を怒らせた上に失望させた感がある。これが一番大きい。
ああ、なんという再会。壮絶なやっちゃった感が僕を打ちのめしていく。
それになんていうか、もっと『感動の再会!』みたいなのを期待してたのになぁ。
「ひ、久しぶり、美咲」
とはいえ、待ちに待った瞬間だ。嬉しさが込み上げてきて少し泣きそうだ。っていうかもう泣いていいですかね? ちょっとマジで。
「ちょ、お兄ちゃん? なんで泣くの? やめて! 恥ずかしい!」
「ご、ごめん、でも、美咲……、僕は六年も……」
ああ、格好悪いところなんて見せちゃいけないのに、でも我慢できない。
「あー! もう! 行くよ! お兄ちゃん! ほら! 歩いて!」
美咲が慌てた様子で僕の手を牽いて歩き出した。周りの人が僕らを様々な目で見ている。
「わぁ、美形兄妹」「いいなぁ、あんなお兄ちゃん」「なんだ、兄貴だったのか、彼氏だったら呪い殺すとこだった」「あんな可愛い妹がいたら……ハァハァ」「ところでなんであの人泣いてるの?」「さぁ? 妹に苛められたんじゃない?」
色々なことを言われているけれど、美咲の容姿を褒めてのことはなんだか妙に嬉しかった。自分を褒められるより、何倍も。
「でも、美咲はよく僕がすぐにわかったね」
「うん、写真も見たし、お兄ちゃん、変わってないもの」
正直なところ、僕はさっきまでドキドキしていた。美咲と逢ったらどんなことを話そう、色々考えてはきたけど時計の針が二時に近付くごとに緊張が増していって話のネタを忘れた。そもそもこんなにドキドキしていたら声が裏返って会話も出来ないんじゃないのか? 本気でそんな風に思った。事前に由真に会っていなければもう発狂していたかもしれない。それくらい僕の緊張のパラメーターはMAXに近づいていたのだ。
けれど、このダメな再会は結果的にはよかったのかもしれない。僕の緊張は最初の失敗でいい感じに解けて、今ではこんな風に会話も出来る。
「そうかなぁ、まあそれもそうか、僕はあの時高二だし、見た目にそう変化はないかな」
「そうね、ちょっとバカっぽいとこもね」
「ソーデスカ」
「ソーデスヨ☆」
美咲は笑顔で言った。
ヒドイなぁ、確かにあの頃の僕はバカなこともやっていたけれど、僕だってあれからそれなりに頑張ったつもりだ。まぁ、それで美咲が笑ってくれるなら、全然いいんだけど。
「でも、美咲はかなり変わったね、なんていうかこう、綺麗になった。もし美咲が話しかけてくれなかったら、絶対気づかなかった」
「お、お世辞で誤魔化そうとしたって―――」
少し照れ気味に言った美咲の言葉を遮って僕は正直に言った。
「お世辞じゃなくて、ホント。僕、今の美咲くらい可愛い子、あんまり見たこと無いよ?」
由真という例外がいるけどね。
「ほ、褒めたって私、何にも出来ないよ!」
照れてそっぽを向いた美咲を見て、僕は幸せを実感した。夢にまでみた光景だ。自然と顔が緩んでしまう。
「何ニヤニヤしてるのよ! もう!」
美咲は早足で歩き出した。
まったく、どこに行くのかわかってるのか。僕も早足で美咲を追った。
「ところで美咲、せっかく上京して来たんだし、何か欲しい物とかないの?」
「欲しいもの……、車!」
「……まずは免許を取ろうね」
車ね、まあ美咲が車に乗る歳になったら買ってあげてもいいけど。
「そういえばお兄ちゃんって車持ってるの?」
「ん? ああ、あるけど……歩くの疲れた?」
「ううん、ただ聞いてみただけ」
まぁ由真の乗ってるような凄いのではないけどね。
「はは、今日は街中を色々回るつもりだったから、車だと色々不便なんだ。ごめんね。疲れたならどこかお店に――」
「あ、あれかわいい」
美咲さん、人の話聞こうよ……。まぁ、いいんだけどね、別に。
美咲は女物の服屋のショウウィンドウに張り付いてしまった。今日は定休日なのかお店の入り口にはCLOSEDの札が下がっていた。ショウウィンドウの服、買ってあげたいけど、まぁ、服屋は平日休みが普通だしね。しょうがない。
「美咲、服、欲しいの?」
考えてみれば美咲は施設暮らしだ。私服なんてあんまり持っていないんじゃないだろうか? 年頃の女の子なんだし、やっぱりオシャレには興味あると思うんだけど。
「え、べ、別にいらないけど?」
目を合わせようとしない。女の子は嘘をつくときは相手の目をしっかり見るというけど、美咲はまだそれが出来ないようだ。それに明らかに目がショウウィンドウにいってるし。
そういえば由真のデートコースメモにも駅前のデパート内にある服屋に行けって書いてあった。あそこは友人が勤めているから僕もよく足を運ぶ、というか、最近では僕の服はほとんどそこで買っている。あそこなら女の子の物もたくさん置いてあるし、美咲もきっと気に入るだろう。
「ねぇ美咲、服が欲しいなら駅前のデパートに僕の友達が勤めている服屋さんがあるんだけど、行ってみる?」
「え、だ、だからいらないって……」
「うん、でも僕、そろそろ春物の服を買いたいと思ってたんだ。せっかく新宿まで来てるんだし、ついでだから買っていこうと思って。悪いけど、付き合ってくれる?」
僕は春物の服なんて、昔由真達に渋谷や原宿を連れまわされたとき、向こう何年も春服には困らないくらい買わされている。だからこれは美咲をデパートに連れて行くための嘘だ。美咲にもそれはわかっているだろう。でも、こういう言い方をすれば――。
「そ、それならいいけど……」
美咲は渋々ながら同意してくれた。
「おー、心護、待ってたよー」
お店に入るなり、いかにも「仕事は服飾関係です!」といった感じのオシャレな男が僕に声をかけてきた。友人の江崎梓だ。
「梓、久しぶり。待ってたって?」
「いやぁ、由真ちゃんから電話があってさ、今日心護が美咲ちゃんを連れて――ってうぉあああああああああああああああああああああああッ!」
「ど、どうした!?」
梓が話の途中、美咲に目をやった瞬間叫びだした。美咲はビックリして僕の後ろに隠れてスーツの袖を掴んだ。
「え! この子美咲ちゃん? 将来美人になるとは思ってたけどマジ? ねぇマジなのお兄さん? 超美少女じゃん! どんだけぇー!」
ああ、なるほど。梓がこうなるのもわかる。梓は美女を見るとテンションが上がるのだ。
「いやぁ、びっくりした。ごめんね美咲ちゃん、驚かせて」
「い、いえ、別に……」
美咲は若干退いている。
「えーと、一応自己紹介をしておこうか。俺は江崎梓。心護とは中坊の時からの付き合いで、美咲ちゃんとも何度か会ったことあるけど、美咲ちゃんはまだ小さかったから覚えてないよね?」
「えと、あの、はい、覚えてないです……」
「あっはっはっはっ! 別にいいんだよ覚えてなくても! これからよろしくね!」
「はい、よろしくお願いします」
「うん、じゃあ俺ちょっと話すことがあるからお兄さん借りるよ? ちょっとの間、服でも見てて?」
「あ、はい。じゃあお兄ちゃん、ちょっと見てくる」
美咲はレディースのコーナーに向かっていった。
梓は美咲への挨拶を済ますと僕に向き直った。
「いやぁ驚いた。由真ちゃんに勝るとも劣らない美女がまた俺の前に現れた。これは最早運命と呼ぶべきじゃないかね? お義兄さん?」
「誰がお義兄さんだ? ふざけたこと言ってるとぶっ殺すよ?」
僕は冷たい笑顔と凍った瞳で梓を睨みつけた。
「うわっ、恐ッ! 冗談ですよ〜お兄さん」
「ふん、で? さっき由真がどうとか言ってなかった?」
「ああ、一昨日由真ちゃんから電話があってさ、『美咲ちゃんはきっと美人になってるから、あの年頃の女の子に似合いそうなヤツいくつかピックアップしといて。値段は結構張ってもいいと思う。むしろ心護の財布をカラにする勢いで高い物選んじゃっていいから』って。だからいくつかもう選んどいたんだけど……」
さすが由真だ。手回しが素晴らしい。っていうかホント、いくら感謝してもし足りないです。ハイ。
僕はもう一生彼女に足を向けて寝られない気がする。
「そっか、ありがと。梓」
「ああ、いいよ。こっちは商売繁盛だし。お値段の方はお前の財布が不憫でならないよ?」
「え、そんなに?」
「まぁ、結構色んなブランドで揃えたからねぇ。うちの店のオリジナルだけってのもアリだったんだけど、お前の財布カラにしていいって言われたから高いのも遠慮なく選ばせていただいた☆」
眩しい笑顔だった。
「そ、そう、ま、まぁいいけどね。美咲が喜んでくれれば、僕はそれでいいし……」
「おー立派だねぇお兄さん。お値段は約十四万ほどになりますがよろしいでしょうか?」
「じゅ、じゅうよ! ……か、カードでいい?」
十四万円……。今日は美咲のためにならいくら使ってもいいと思っていたけれど、いきなり十万単位の買い物になるとは……。一応財布の中にはそれくらい入っているけど、この後食事にも行くだろうし、美咲を色んな所に連れて行ってあげたい。だから現金は使わず、カードで支払うことにした。
「毎度あり〜!と、いいたいとこだけど、まずは美咲ちゃんに試着してもらわないと。あのルックスだし、何着ても似合うのは確実だけど、サイズのこともあるし、とりあえず着てもらわないと、な?」
「すごっ! 雑誌に載ってるヤツだ! きゃー!」
レディースのコーナーに来ると美咲が女性店員と大はしゃぎで服を試着しまくっていた。
店員さんも素材のいい美咲に色々着せて楽しんでいるようだ。
美咲が楽しそうだ。昔の笑うことのなかった彼女からは考えられない。僕は美咲のこんな顔が見られる日を待ち望んでいた。生きていてよかった。大袈裟かもしれないけどそんなことまで考えてしまった。
「お姉さん! これ着てみてもいいですか?」
「あ、それでしたらこっちのプリーツスカートとあわせてみてはいかがでしょう?」
「あ、可愛いかも!」
美咲と店員さんはなんというか、女の子の会話に夢中になっている。美咲が楽しそうに人と話しているのを見るのは初めてだ。僕は嬉しくなった。
僕は美咲に友達がいるのかどうかすら知らない。それは今もそうだけれど、昔からだ。昔、まだ僕と美咲が都市辺縁のアパートに一緒に住んでいた頃、僕は美咲に無関心だった。というより、気にかけてはいけないと思っていた。だから彼女が学校でどんな風に生活していたかなんてわからない。僕の知っている美咲はただ部屋の隅の方でガタガタと震えているだけ。いつも母さんに怯えている、そんなところしか覚えていない。
僕は昔を思い出す度、自分を呪った。無関心でいた自分が許せなかった。
(そんなこと言ったって、仕方ないじゃないか。僕が美咲を庇ったら、美咲はもっと酷い目にあうんだから)
そんな言い訳がすぐ口をついて出るのも許せなかった。そんなことじゃない。今ならわかる。たとえその場限りでも、自分を庇ってくれた人がいるというだけでそれは支えになる。もし僕が美咲を見捨てなかったら、美咲の心は壊れなかったかもしれないんだ。
「お、お兄ちゃん!」
美咲が僕に気が付いたようだ。
「美咲、楽しそうだね。気に入ったのあった?」
僕は陰鬱な思考を切り上げて笑顔で言った。
「た、楽しいよ、着るだけならタダだし……」
「はは、気に入ったのがあったなら、買ってあげるよ」
「い、いいよ。高いし、服なんて別に着れればなんだって……」
やっぱりか。美咲は値段を気にしているみたいだ。確かにこのお店は芸能人も足を運ぶようなお店だ。値段はどれも庶民の感覚よりは高めに設定されている。それに美咲は施設暮らしが長いし、うちは元々裕福じゃなかった。金銭感覚は庶民のそれよりさらにシビアなんだろう。
「はっはっはっはっ、美咲ちゃん、金なら気にしなくていいよ」
梓が口を挟んだ。梓め、それは僕のセリフだ。
「心護のヤツ、今や飛ぶ鳥をさらに飛ばす勢いで金持ち街道を爆進中だからさ☆ いくら使っても湧水のごとく湧きあがってくるんだよ! なぁ? 心護?」
なんだそれは……。確かに同世代の稼ぎの平均よりは上だと思うけど、それは言いすぎだよ、梓。お金って、貯めるのは大変だけど、使うとすぐ無くなるんだ。
でも、今日は美咲のためにならいくら使ってもいい。最初からそういうつもりだった。
「そんなわけないだろ、バカ梓。――でも、美咲にちょっとブランド物の服を買ってあげるくらいの余裕はあるつもりだよ」
僕はさっきから手に持った服をチラチラ見ながら挙動不審な美咲に言った。
「で、でも……」
む、なかなか強情だ。でももう一押しな感じではある。それなら――。
「じゃあ、中学の卒業祝いってことでどう? 僕はまだ美咲に何もあげてないし。それならいいでしょ?」
美咲は僕と手に持ったワンピースを交互に見て、おずおずと口を開いた。
「ホントに……いいの?」
ぃよしっ!落ちた!
「うん、選んでおいで」
「じゃ、じゃあ一着だけ……」
買うと決まると美咲はくるくると色んな服を見て、手に持った白いワンピースと見比べていた。
「あっちのもいいし〜、こっちのも〜、あ〜でもやっぱりこれがいいかなぁ〜、や、でもやっぱり〜」
迷ってるなぁ。別に一着だけじゃなくてもいいんだけど。
目まぐるしく変わる美咲の表情は見ていて飽きない。
昔、恐怖に引きつった顔で泣いているばかりだった彼女からは想像できない。ただ服を買うだけであんなに迷って右往左往する姿はどこからどう見ても普通の女の子のそれだ。
「あ〜やっぱりこれかなぁ」
どうやら決まったらしい。そこに梓が由真の頼みでピックアップしておいた服の一揃いを持っていった。どうやら試着させるみたいだ。
しかし、なかなか手ごわかったな。兄が妹に服を買ってあげるくらい普通のことだと思うんだけど……。遠慮されまくり。やっぱり、まだ遠いのかな……。
「……」
不覚にも見惚れてしまった。梓は奇声を上げていた。
試着室から出てきた美咲は僕がレディースのコーナーに来た当初から持っていた白いノースリーブのワンピースを着ていた。
「凄いな、美咲ちゃん、色白いし、細いからゴシック系もイケるんじゃね?」
「あ! いいね、着せよう着せよう!」
梓と店員さんが楽しそうに服を選びにいった。
「お兄ちゃん?」
惚けていた僕に美咲が言った。
「え、な、なに?」
僕は慌てて返事をした。
「どう? 似合う?」
美咲がひらりと回って見せた。その時僕の目は美咲の腕にあの傷を見つけてしまった。母さんに刺された傷だ。
(痕、やっぱり残っちゃったんだ)
美咲の白い肌に、それ以外の傷は見当たらなかった。他の暴行でつけられた痣や傷は綺麗に消えたみたいだ。あの刺し傷にしたって、もう六年も前のものだ。痕があるといってもそんなに目立たない。僕があの傷を探してしまったから気が付いただけだ。
「う、うん、可愛い。すごく。ちょっと見惚れちゃったよ」
傷には気が付かなかったフリをして僕は美咲を褒めた。照れたような演技で。
傷を見て嫌なことを思い出しそうになったけれど、表情には出さなかった。僕はポーカーフェイスには自信があるのだ。
「そう、かな?」
美咲も少し照れたように言った。
「じゃあ、次は梓さんが選んでくれたの着てみるね」
言うと美咲はまた試着室に引っ込んでいった。
鼻歌まじりに着替えている。美咲は上機嫌なようだ。
僕はといえば、レディースのコーナーにある試着室の前に男一人でいるという耐え難い苦痛に苛まれていた。
しばらくすると梓と店員さんが楽しそうに戻ってきた。梓の手には何だか奇抜なデザインのフワフワした服が一揃い――。
「梓、それ、ビジュアル系ってやつ?」
「違う! ゴシックロリータ略してゴスロリじゃ! 愚か者め! いいか? ゴスロリってはそもそも――」
梓がゴスロリについての講義を始めた。こうなると長い。
僕は服に関しては門外漢だ。着ている服はほとんど梓が選んでくれたものだし。
興味が無いってわけじゃないけど、僕は仕事もスーツだし、休日だって由真や梓に連れ出されない限りはスーパーに買い物に行くくらいしか外出はしない。だから私服はそんなにこだわる必要がないと思っていた。けど、これからは、美咲と一緒に暮らすようになったら、二人でどこかに出かけることだってあるかもしれない。
(僕も少しくらいは服に気を使ってみようかな)
そんなことを思った。
「―――っていう感じになるわけだ。ここで大切なのはゴスロリと甘ロリの違いについてだ。誤ってピンクのブラウスなんか着た日には――って心護! 聞いてんのか?」
「あ、ごめん。聞いてなかった」
「テメェ! オモテ出ろ! 貴様の体に俺様のウォシャレ真拳の奥技を叩き込ん――」
カチャ、と試着室のドアが開いた。ちなみにこの試着室、カーテンで仕切られただけの簡素なものではなく、ドアはなんだか趣のある木製品で、無駄に高級感がある。流石は芸能人御用達といったところなのかな。関係あるかはわからないけど。
「――でや……る」
梓の視界に試着室から出てきた美咲が入った瞬間、梓の動きが止まった。店員さんも、そして僕も動きを止めた。いや、止めたんじゃない。止まってしまったんだ。
「な、なに? どうして固まってるの?」
美咲が困惑した表情で言った。
梓が突然床に座り込んだ。そして、
「ブラヴォオオオオオオオオオッ!」
叫びながら、座ったままの姿勢でジャンプ!
何だか色々間違ってる気がするけど梓の気持ちはわかります。すごくわかりますとも!
僕が某国の工作員なら間違いなく美咲を拉致ります! はい!
「はぁ、はぁ、ま、まさかここまで似合うとは……江崎梓、人生最高の仕事!」
「お、恐ろしい子!」
梓と店員さんは様々なリアクションで美咲を評価した。
「美咲、凄い!」
揃いで十四万円もするような服だ。デザイン的にもスタイルが良くなければ似合わない、普通の女の子なら服に着られてしまうような服を見事に着こなしている。雑誌のモデル顔負けだ。僕は思わず体育会系のノリで美咲の肩を掴んでユサユサと振った。
「あわわ、やめてよ、お兄ちゃん、痛い痛い」
僕は咄嗟に手を離した。
「あ、ご、ごめん」
しかも謝ってしまった。失敗だ。笑いながら手を離すのが正解だ。
「もうっ! 服にシワがつくじゃない!」
美咲の返答はありがたかった。過去に気を使っていると思われたくないから。
痛い、という言葉に僕は過敏に反応してしまう。その言葉が昔の彼女からはいつも叫ばれていたからだ。この程度の触れ合いは日常生活ではあって当たり前で、僕も相手が美咲じゃなければ何も思わない。けど、美咲からその言葉を聞くのは嫌だった。もう二度と聞きたくないと思っていた。
(でも、昔とは違う。同じ『痛い』でも、暖かさのある『痛い』だ。こんなこと、いちいち気にしちゃダメだ)
大丈夫、一緒に暮らすようになったら、すぐ慣れるさ。
それから美咲は梓達が持ってきたフワフワしたゴスロリの服を着せられて恥ずかしそうにしていた。梓はそれを見て鼻血を噴出し、店員さんは可愛さのあまり美咲を誘拐しようとしたので滅ぼさせてもらった。結局、ゴスロリは買わず、梓の選んでくれたものと美咲の選んだ白いワンピース、それに合わせるジャケット、そしてここに来る口実に使った春物のシャツを一枚だけ買うことにした。美咲は本当に一着だけ買ってもらうつもりだったようで説得に苦労した。
支払いの時、梓が言った。
「美咲ちゃん、スゲー似合ってた! どれか今から着てったら?」
「え、でも……」
「いいのいいの。結構大量だからね。包むのと会計にちょっと時間かかるから着替えておいで。心護もさっきの服の方がいいよな?」
確かに、美咲が今着ている服は街にいる同年代の女の子のものに比べて少し地味だ。僕としては美咲に普通の子と同じような格好をしてもらいたい。僕は服装なんてどうだっていいとは思っているけど、さっきの様子を見るに、美咲は流行の服を着て歩きたいはずだ。
「うん、まぁ、か、可愛かったし」
美咲の顔が赤くなった。
「じゃ、じゃあ……ちょっと着替えてくる」
美咲が白のワンピースとジャケットを持って試着室に入っていったのを見計らって、梓が言った。
「今日、俺の奢りでいーわ」
「はぁ!? 何、いきなり?」
僕は本気で驚いた。十万を超える大金を奢る? 梓はどこかおかしくなってしまったのだろうか、なんて本気で考えてしまった。
「声でけーよ、このこと由真ちゃんと美咲ちゃんには秘密な」
「な……」
「夢だったんだろ? 美咲ちゃんと暮らすの」
「な、なんだよいきなり。そりゃそうだけど、それが何の関係が――」
「前祝? みたいなモンだよ。いいじゃん、これくらいしたって」
「け、けど、十万以上するんだよ? そんなの奢ってもらうわけには――。それに僕、お金ならそれなりに――」
「気持ちだよ、気持ち。旧い連れの夢が叶うかもってときだし、このくらいのことはさせてくれてもいいじゃん」
「梓……」
僕にとっては梓が美咲のために服を選んでくれただけで十分だった。
「暮らせるといいな、一緒に」
「……うん」
由真もそうだけど、僕は本当に友人に恵まれていると思う。
「そうしてくれないと、俺が美咲ちゃんにもう会えなくなっちゃうから☆ あ、美咲ちゃんってケータイ持ってる? 持ってるんだったら番号とアド教えてくんね?」
いやぁ、コイツ敵。エネミー。
つづくよ!!!
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「 番格二重奏 」 連載式? (「魁!? 信長学園!!」スピンオフ作品) 著 四年生:ジェバンニ (副部長) |
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プロローグ
「天下よ! 男ならてっぺんを目指せ! それが男ってもんだろう!」
「おうよ! オレはやるぜ! オレがもう一度、この徳川に天下を!」
「そうかぁ! さすがは俺の息子だ! ならば俺は全力でお前を応援するぞ!」
「父ちゃん!」
「天下ぁ!」
ガシッと抱き合うアツい親子が僕の目の前でなにやら誓いあってしまったようです。
まったく暑苦しい。四月という暑くも寒くもない過ごしやすい季節だというのに、ここ私立徳川高校の部室塔の一室、番格部の部屋だけは真夏に冷房も入れずに窓を閉め切った四畳間のように暑苦しく感じられます。
それというのも、今僕の目の前で我が校の理事長であるはずの男が自分の子に向かって男の道について熱く語り、当の子もそれに血筋通りの熱血で応えたからです。
彼らが作り出す異空間には慣れているものの、やはりこう間近でやられると耐え難い。
「天下ぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
「父ちゃぁぁぁぁぁぁぁん!」
――はぁ、そろそろかな。
この親子は放っておくと際限なく燃え上がるので、僕はいつもの自分の仕事をすることにしました。
すなわち、燃え盛る火を消す消防士。英語で言うとファイアーマン。これだとなんか僕が燃えてるような気がしますね。と、そんなことはどうでもいいや、さて。
大きく息を吸って――。
「理事長、天下は女の子です! いい加減息子扱いするのはやめてください! あんた息子の将来考えたことあるんですか! こんな女の子絶対就職に苦労しますよ!」
一息で言い切りました。
そうなのです。今僕の目の前にいる二人のうちの一人、艶やかな長い黒髪を後ろで纏めたポニーテールが印象的、全身がブカブカで不自然に丈の長い改造制服、俗に長ランと呼ばれるものを可愛らしく着こなしている(着られている?)のは僕の幼馴染み、徳川天下。男言葉を使い、男装を好む変人だけれど、間違いなく女の子で、おまけに美少女です。
そんな彼女と幼馴染みな僕は、きっと特別な存在なんだと思います。
ええ、ホントに、特別『不幸』なんだと。
だってそうは思いませんか?
片想いの相手がこんな、男装で口が悪くて熱血、綺麗な長い髪をスポーツ狩りにでもしてしまえばもう完全に『女顔の男の子』な少女なのですから。
はぁ、小学校の頃、まだ幼い僕が思い描いていた夢の一つにこんなものがありました。
――高校生になったら、制服――もちろん女子のね――を着た可愛い――ここ、重要ね――女の子と――っていうか天下と――一緒に登下校する!
ふふ、今となっては本当に夢ですね。だって彼女、天下はこの徳川高校に入学してから一年間、一度だって指定の制服を着てきたことはないのですから。
もう完全にメンズですよね。
制服を着た好きな女の子と登下校する。男子なら誰でも一度は思い描き、努力次第では叶うかもしれない夢を見ることさえ僕にはできないというのですから、僕は不幸だと言えるでしょう。
ああ、なんてかわいそうな僕。
「うわああああああん! 織田の次男坊に怒られたぁ!」
あろうことか泣き出してしまいました。オッサンの方が。泣きたいのは僕の方だ。
「いい歳したオッサンが泣かないでくださいよ! 気持ち悪い!」
「こら天馬! 父ちゃんをいじめるな! いいか? いじめは最低だぞ! カッコ悪いんだぞ! まったく! 我が校の裏番長ともあろう者が情けないと思わないのか!」
「いじめじゃなくて説教だよ! むしろ四十過ぎて高校生に説教されて泣くほうが情けないわ! そもそも高校生に説教されること自体どうかしてるわ!」
「バカ野郎! わからないのか? そこが父ちゃんのナウいところなんだよ!」
「わかるかこのファザコン! ってかナウいって君、ホントに平成生まれの女子高生か?
いつの時代のツッパリだよ!」
「なんだと、天馬のくせに! 言っておくがオレは父ちゃんより母ちゃんの方が好きだぞ! むしろマザコンだ!」
「食いつくとこそこかよ!」
「ええ? そんな……天下、父ちゃんより母ちゃんの方がいいって言うのかい?」
「ああ! ごめん父ちゃん! つい――」
「つい本音が出ちまったって言うんだな? ち、畜生、母ちゃんめぇぇぇ……」
「あわわ、どうしよう天馬! お前とオレのせいで徳川家が離婚の危機だぞ!」
「君だけのせいだろうが!」
徳川家の家族格付けランキングが垣間見えてしまうゴタゴタした会話をしていると、突然部室のドアが勢いよく開かれました。
「敵襲!」
いきなり現れてそう叫んだ人影に向かって僕らは揃って、
『イケメン!』
イケメン、というのは入ってきた男のあだ名なのです。
彼の名は池麺太郎。読みはイケ・メンタロウです。今年入学して、先日入部したばかりの一年生で、僕らの後輩に当たります。実際美形であるため、イケメンと呼んでも差し支えないのでそう呼ぶことにしたのです。
「番長、兄貴、てぇへんだ! すぐ校庭に来てくれ! 毛利学院の奴らがカチ込んで来やがったんだ!」
番長、そう呼ばれたのは目の前の熱血美少女、徳川天下。言うまでもなく、兄貴は僕、織田天馬。
どうやら近隣の毛利学院高校の番格部が、僕たち徳川高校番格部に戦争を仕掛けてきたようです。
「おもしれぇ、上等じゃねぇか! 行くぞ天馬!」
天下は僕の手を取って駆け出そうとします。
「ええ、ちょ、そんな急にケンカなんて……。理事長、止めてくださいよ!」
僕は天下に引きずられながらこの徳川高校の教育者のトップに助けを求めます。
「ヒャッホォォォウ! 戦じゃ戦じゃあ! 頑張れよぉ天下! 父ちゃんお前の雄姿をしっかりビデオに撮ってやるからな!」
「ちっがうだろぉぉぉ! あんた心配じゃないの!?」
「なんだようるせーな、心配しなくてもちゃんと君も映してやるしダビングもしてやるよぉ。あ、うち最近ブルーレイにしたんだけど、君の家、再生できるハードある?」
「そうじゃねえええええええええええッ! 少しは娘の心配しろよ!」
ダメだコイツ。どうしようもなくダメな大人だ。
「しかし、なるほど――。毛利の連中は初戦にうちを選んだか」
理事長はニヒルな笑みを浮かべて不精ヒゲを触りながら頷きました。その姿はさながら数多くの戦乱を生き延びてきた歴戦の傭兵をホウフツとさせましたがこの親バカがやったところで少しも格好よくはありません。
「理事長! 毛利なんざ、兄貴にかかりゃ二分でアウシュヴィッツでさぁ!」
イケメン、それ言い過ぎ、そして不謹慎。
「あぁん? 小僧、うちの天下が織田の次男坊に劣るってのかぁ?」
高校一年生を相手にものすごいメンチを切るオッサン。
「あんた大人気ないよ!」
そうこうしている間にも僕は部室の出口まで引きずられていました。
「父ちゃん! 行って来るぜ!」
天下は理事長に向かって親指を立てます。
「おうよ! いっちょかまして来い!」
バカ親父も親指を立てて応えます。
ああ、ダメだ。わかってはいたけど理事長はクソの役にも立たない。
「待たせたな、野郎ども! 気合は入ってるか!」
『押忍ッ!』
番長、徳川天下の声に、部室塔のすぐ外に集っていた我が校が誇るツッパリの精鋭たち十余名が力強い返事をします。
「目指す全国制覇のための初戦だ! 完膚なきまでに毛利の蛆虫どもを叩き潰すぞ! そして奴らご自慢の三本の矢とやらも、奴らの目の前で親指と人差し指だけでへし折ってやる! そんで言ってやるんだ! 細くて脆い矢は一本なら簡単に折れる、でも三本なら折れない、だって? オレなら三本でも簡単に折れるっつーのってな! あはは、毛利のアホどもの悔しそうな顔が目に浮かぶようだ! どうだお前らぁ! 楽しそうだろぉ!」
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!』
場の空気が猛者たちの熱気に当てられて膨れ上がっていくのがわかります。待ち受ける決闘を前に彼らのテンションはマックスに!
「ふひひ、さすが徳川番長、えげつないぜ! 萌えてきたぁ!」
「まったくだ、美少女なのに鬼畜にもほどがあるぜ。だがそれがいい!」
「たまんねーな! オレ、あの人を見る度、番格部に入って正解だったなって思うんだ」
「あ、やっぱり? 俺も」
なんというか、天下はその粗暴、というか破天荒な性格とよくグラビアなんかで安売りされる美少女とは比べ物にならない、ホンモノの美少女といった容貌を男装で台無しにしているもったいないところが逆にイイ! とかなんとかいうよくわからない理由で番格部はおろか、学校中の生徒から大人気です。まったく、うちの学校の連中はマニアックで結構なことです。
あの過激な発言も僕としては謹んでもらいたいのですが、これから決闘に行くのですから、士気が高まるのは良いことです。
「イケル! 番長のためなら俺は死ぬほど筋トレしてガチムチにだってなってやる!」
「じゃあ俺は税理士になる!」
「じゃあ僕は警察官だ!」
「じゃあわたしはウェディングプランナー!」
なんのコマーシャルだよ、まったく。
「はぁ……」
周囲が盛り上がる中で僕は一人、ため息をつきました。
いくら部活とはいえ他校と決闘だなんて、本当は天下にはそんな危ないことをして欲しくはないのです……。女の子がケンカなんてはしたないし、何より危ないし。
――やっぱり僕が天下を守らなきゃ――。
荒事がある度にそう決意するものの、僕が天下を守らなければならない状況になんかまずならないということを、僕はわかっていました。
――だって、天下は強い。それも人の域を逸脱していると思えるほど。天下はそこだけCGで出来ているともっぱらのウワサです。
昔から頭も運動神経も良かったけれど、それでも標準の域を出るほどじゃなかったし、小さい頃の天下は服装も言葉遣いももっと女の子らしかった。
いったい彼女に何があったのか、ずっと昔から一緒にいる僕にもわからない。
「行くぞぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」
叫ぶと天下は敵の待つ校庭に向かって走り出しました。
そのよく透る高いのに落ち着いた叫びに、猛者たちが雄叫びを上げて後に続きます。
僕は気乗りしないままでしたが最後尾につきました。
番格部の副部長、すなわち、徳高の裏番長としての定位置、いわゆる『ケツ持ち』です。
「来たわ! 番格部よ!」
ある女生徒の甲高い声を合図に、校舎の窓からキャーキャーと黄色い声があがります。
「きゃー! かっこいい! (ありがとう!)」
「負けんなよぉ! 番格部! (頑張ります!)」
「わきゃー! 徳川くぅん! 頑張ってぇ! (天下は女だぞ!)」
「徳川ぁ! 愛してるぞぉ! (それは僕に対する挑戦なんだね?)」
「裏番も頑張れよぉ! (裏番っていうか副部長なんだけどね)」
「天下さん頑張ってぇ! お兄ちゃんもケガしないでねぇ! (ありがとう、妹よ。お兄ちゃん頑張るよ)」
「天馬ぁ、お前戻ってこないと思って机の上に置いてあったアップルティー飲んじゃったぞぉ! ごめんなぁ! (ぶっ殺すぞテメェェェェッ! アップルイズマイソウル!)」
「池くん、怪我しないでね! 特に顔! (あれ? 男の声なんだけど……)」
「イケメンは死ねぇ! (人を呪わば穴二つ……)」
「姐さんのカミソリ捌き、毛利の奴らに見せてやってくだせぇ! (カミソリは危ねぇ!)」
「みんな頑張れよ! 先生、お前たちに五千円賭けてるんだからな! しっかり応援するから絶対勝てよ! (ここの教員大丈夫?)」
多種多様な声援に、目立ちたがりの天下は大手を振って、イケメンや他の部員達はぶっきらぼうながら軽く手を上げるなどして応えています。
――ああ、しかし、いつもながら不可思議な光景だ。
どうして学内に他校の生徒が侵入することも、それと生徒がケンカをすることも容認されてしまっているのか――。
まったく、あんな頭のおかしい特措法さえなければ、こんなことにはならなかったのに。
――今を遡ること二年前、西暦2006年。
少子化が叫ばれる時代にあって尚、少年犯罪は増加の一途を辿り、その手口は極悪を極め、学生たちの縄張り争いで起きるケンカは後を絶たなかった。
対応に追われた学校、警察、政府は疲れ果てていた。なにしろどんな対策案を出そうとも、中々効果が上がらないのだ。人間は無駄なことをすると精神に痛手がくるイキモノだ。疲れは溜まる一方だった。
そんなある日――。
何度目かもわからないほど繰り返された対策会議で、すっかり憔悴した政治家の一人が天啓が下ったかのように突然立ち上がってこう言った。
「そうだ! そんなに元気が有り余ってるなら、もうケンカを部活にしちゃおう!」
それを聞いた周囲の者達はこぞって言った。
『お前、天才じゃね?』
――後に名付けられる『学生戦国時代』の幕開けである。
全国各地の各学校に一人、番長を用意させ、番長に従うものを集めて部活動とする。
その名も『番格部』である。
彼らの活動は他校の番格部とケンカをするのが主だ。番格部の名の下に行われるケンカはケンカではなく、試合と呼ばれるのだが、試合というからには大会があるということである。
毎年の夏に『番格甲子園』という『日本最強』の学生たちを決めるという、若者ならば自然と血沸き肉躍る全国大会が開催される。
若者にとって、最強という言葉はそれだけでこの上なく魅力的なものだ。
番格部はみるみるうちに人数を増やし、番格甲子園のテレビ中継の視聴率は今や、高校野球の甲子園中継を追い抜いている。
特措法施行から三年、平成の世は血の気の多い学生達が血で血を洗う戦国時代と化していた。
だが治安が悪いわけではない。
日本の若者は燃えているのだ。そう、今、学生達は――。
――学生達は今、政府公認のケンカに明け暮れている!
西暦2008年、四月十五日、太陽系第三惑星地球は日本国の愛知県某市、番格甲子園優勝を目指す我ら徳川高校の初戦、対毛利学院高校戦の幕が降りようとしていた。
四月中旬から六月末の間に県内の番格部同士で国取り、もとい、学校取り合戦(ゴロ悪い)を行い、最後まで残っていた、もしくは期日までに支配した学校数が最も多かった学校の番格部が全国大会出場の切符を手に入れる。試合には決まった日程はなく、ただ決められた期間内で自由に潰しあうのみだ。
そのため毛利学院高校は予選開始の今日、最も近くにあった我が徳川高校に勝負を挑んできたわけだが――。
黒の学生服に身を包んだ学生達が乱闘を繰り広げた戦場跡地(徳川高校校庭)、死屍累々、たった一人の少女が作り上げた死体(生きてますよ!)の丘の頂上で、夕陽を背にしたポニーテールが一人、幽鬼のごとく立っている。
「ふふ、毛利学院、もう少し骨があるかと思っていたが、口ほどにもなかったな」
ここ、愛知のある場所で、日本の、否、世界の番長となるべき器の者が、徐々に、しかし確実に覇王への道を歩み始めていた。
――この物語は、全国制覇を目指す少女、時代が生んだ平成の風雲児(?)、徳川天下と、彼女の魅力(?)に引き込まれた(巻き込まれた?)人々の、盗んだバイクでカッ飛ばしてしまうような若さと、熱き戦いと、そして胸を突くような切ない恋の物語――らしいですよ?
部則その一 『番格たる者、美しくあれ!』
「おい、ほんとにヤル気なのか?」
「ああ、俺は本気だ」
うららかな陽光差し込む昼休みの教室、僕の質問に真剣な面持ちで答えたクラスメイトにして部友である前田慶一郎を囲んだ僕と天下はなんとはなしに、教室の入口付近で友達と立ち話をしている胸のふくよかな女の子、石田さんに目を向けました。
「本当に石田さんを?」
「おう、もう我慢ならん、俺は石田の乳を揉むぞ!」
同じ番格部員である前田慶一郎、こいつが突拍子も無いことを言い出すのは別に珍しいことではないのですが、今回はその突拍子の無さが常の三倍はあったので僕と天下は少し困ってしまいます。
「参考までに一つ聞きたい。なにがお前をそこまで――」
「何故と問うか、織田よ。ならば答えよう」
前田は窓際に立って差し込む日を背にし、拳を天高く突き上げ、そして叫んだ。
「そこに二つの山、もとい、乳があるからだ!」
ごめん、今のお前、ちょっとかっこいいよ。かぶき者の極みだよ。
――でも同時にわかったことがある。前田、お前アホだろ。
「だいたい俺は常々思っていた! 何故あの女は自身がセクハラ大魔神なのに俺たちが仕返しに触ろうとすると嫌がるんだ!」
「それは女性として当然ではないかね? 前田卿」
部友が我を忘れそうなのに対し、僕は冷静に切り返しました。
「何をおっしゃる、織田伯爵! 彼女に女性としての恥じらいや節度があるとでも? おかしいではないか、彼女は校庭にエロ本が落ちているのを見つければ授業中でも特殊部隊の動きで窓から飛び出していくし、西塔三階の女子更衣室で女子が着替えていれば木に登り、オペラグラスを使ってでも覗くセクシャリストだ。そして私も同じだ。私とて校庭にエロビデオが落ちていたら授業中だろうが期末テスト中だろうが迷わず飛び出して夢をゲットする(きっと大学入試の最中ですら私は夢を追うのだろう)そして女子更衣室覗きはもちろん、私はスカートの短い女子が階段を登っていただけでも迷わず覗けるスポットに盗塁の得意な甲子園球児ばりのヘッドスライディングを敢行するほどの強兵だ。その意味で、エロスを極めんとする私と彼女は同族。もっと肉体的スキンシップを図ってもいいのではないか?」
いかん、こいつは大変だ。たいへんなへんたいだ。
「そ、それは、そうなのかもしれんが、お前の物言いではお前のほうが変態に聞こえるが」
「無論、俺は変態だ。自覚もあるし誇りもある」
持つなよ、そんな誇り……。
「なのになぜ彼女は俺を避ける! 俺だって授業中は十秒に一度エロイことを考えているエロソムリエだ! 突然教師に指名され、立ち上がって発表するときなどよく前かがみになるお茶目さんだ! なのになぜ彼女は同族の俺を避けるのだ! 何故あの乳は俺のものにならん! もう我慢できん! 俺は、俺は――英雄になる!」
「前田、お前――」
この男、マジだ。
僕にはこの男を止めるのは無理そうなので、最強番町の天下に助けを求めます。
「天下、止めないのか? 同じ女の子がセクハラされそうなんだぞ?」
「うーん、そうなんだけどなぁ、石田にはオレも毎日のようにセクハラされてるから、被害者の気持ちを知ってもらういい機会だと思って」
「そうだったな、そういえば」
意外にも天下のお許しが出でしまいました。となれば、高校二年生の健康的な男子である僕も身の振り方を変えねばなりません。当然、取る選択肢は一つ――。
「じゃあ、じゃあ僕もおっぱいで!」
叫ぶなり僕と前田は教室の入り口へと猛進!
「え! 天馬、お前もか? そ、それはやめたほうがいいんじゃないか?」
天下があわてています。
「だが断る!!」
僕はそう言い放つと、もはや後ろ省みず、内なる修羅に身を任せてひた走りました!
先を行く前田がその早駆けで敵の双璧に到達!!
敵は侵入を許したことに気付いていませんでした。前田はに奇襲成功!!
「天馬! 後に続けぇ!!」
「おうよ! 二番槍! 織田天馬参上ッ!! 謹んでお相手いた、イタ、イタタ、痛い!天下やめて!耳引っ張んないで!!」
聞いてのとおり僕は天下に止められましたが、前田の右手は栄光を手にしています。
徐々に石田さんの頬が紅潮していき――
「きゃああああああああああああああああああッ!」
石田さんが耳をつんざくように悲鳴を上げます。
「や、やった……。やったぞぉぉぉぉぉぉぉ!」
そう叫んだ前田は感極まって涙を流しました。男泣きというやつでしょうか。
教室内がざわめき始めます。
「おい、泣いたぞ! あの前田が! 小学校のころ組体操でハブにされて先生と組まされても泣かなかったあの前田が!(伊藤)」
「ホントだ、泣いてる! 中学時代、身体測定の日に間違えて親父の白ブリーフをはいてきてそれを馬鹿にされても泣かなかったあの前田が!(前原)」
「出会い系サイトで知り合った女性が小学校のころの恩師だったときも泣かずに耐えたあの前田が!(武田)」
『――泣いている!』
「お前らぁ!」
我が校の名物風紀委員長が乱入してきました。セーラー服の似合う美人です。彼女は天下に羽交い絞めにされている僕を見て言いました。
「織田! お前まで……。くッ、馬鹿ばっかりの番格部では唯一まともな奴だと思ってたのに――。けしからん! ほ、ほほ、放課後ちょっと付き合え!」
あるぇー? なんだかわからないけどデートのお誘い?(泣)
いやぁ、モテるって辛いなぁ。羨ましいからって名前を書かれたらその人が死んでしまうノートに僕の名前を書かないでくださいね?
無法天に通ず!! まだまだ続くぞォ!!!
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日本には、決して歴史に登場することのない一族が二つ存在する。歴史の裏に常に介入し続け、けれど史実に名が記されることはない。
一つは『紙術師』、そしてもう一つは『紡術師』。己が持つ力を操る媒介から、そう呼んでいた。
日本史の上で何か争いがある時、それは二つの一族が何らかの利権を求める争いだった。強大な力を持ち、血の結束を以って世を渡った。ある時は権力者を懐柔し、ある時は民衆を扇動し、ある時は全く姿を消した。そうして常に闇の中から、日本を操り続けた一族。その存在は広く知られることはなく、また、名を知る者が皆無となることもなく、時を下った。
時代は変わり、権力も次第に姿を変えた。権力者を懐柔しても、得られる利益は減ってしまった。見切りをつけた二つの一族は、歴史の裏側からすらも姿を消した。ただの凡庸な人間に混じって生きることを、彼らは選択する振りをしたのだ。
安堵していたのは、彼らを取り込むことに失敗した者。逆に恐怖を覚えたのは、彼らを利用しようとして利用されていた者。表には決して知られることのない混乱が、彼らを襲った。
だが、それから何年も『術師』は歴史に現れなかった。権力におもねることも、民衆を扇動することもしなかった。存在を知る者も、次第に減った。一族は滅亡したのだと考える者もいた。或いは、『術師』の力を失ったのではないかと考える者もいた。――どちらも、仮説の域を出なかった。
そうして『術師』の存在は、半ば伝説と化した。存在を知る者はいても、実際に会ったことのある者はいなかった。
だが、滅亡したのではない。ただ息を潜めていただけで、一族は一族として存在をつづけていたのだ。
墨をする音、さらさらと筆の滑る音――耳に慣れた音を聞きながら、九条 柳も筆を取った。週に二回の部活は、学校の書道室で行われる。筆が手に馴染んだと思うのは、筆先が半紙に触れた時、墨が紙に落ちて、初めて筆と一体になったような感覚が生まれる。一気に書き上げ、筆を置いた。
「あら九条さん、堂々とした字ね」
柳が書き上げた字を見て、嘱託教諭は声をかける。一部では有名な書道家らしいのかが、なぜそんな人が弱小書道部の指導をしているのか……謎である。ちなみに、作品は売れているので生活に困っているという訳でもないらしい。……やはり謎だ。
「ありがとうございます」
「あ、そうそう。来月のコンクール、九条さん出さない?」
「はあ……」
自慢ではないが、実は柳は一部で(これも一部だ)有名なのだ。全国規模のコンクールで金賞と取ったことがあるので(高校生の部だったが)、名前だけは知れている。そんなこんなで、こうしてほいほい作品を出すハメになるのだが。
「で、どっちに出す? 課題? それとも自由課題?」
「…………」
駄目だ。完全に出すことが決定している。こうなると何を言っても無駄なのは、柳もよ――っく知っていた。
「……課題で」
「あら珍しい。いつもなら九条さんは自由課題なのに。」
「ええ、まあ」
確かに、自分で字を考える、百歩譲っても複数の課題から選ぶ方が好きだった。だが、今はそうも言ってられない。
「ちょっと今、色々忙しいので」
「そうだったの」
(そうだったんです)
内心で返事をし、ついでに深々と溜め息をつきたくなった。
一週間ほど前だったか、やはり部活の帰りのことだ。一人で校門を出ると、一人の男が立っていた。不審極まりないので、無視して通り過ぎようとした。……が。
「……お前、『術師』だな」
「え?」
何か呟かれ、思わず振り返ってしまった。
「――『紙術師』か」
何を言われているのか分からない。日本語を喋っていることは確実なのだが、それにしても意味が通じないのだ。
「少々手こずったが、見つかっただけマシだ」
――身の危険を感じた。相手が怪しく、言っていることも意味不明、更に自分を探していたらしい。ここまで揃えば、たとえ叫んでも逃げ出しても不審ではないだろう。
柳が選んだのは、逃げ出す方だった。
「おい待て。怪しい者じゃない」
「それ言ってる時点で、絶対怪しい!!」
叫ばなければ余計な体力を使わずに済むのだが、叫びでもしないとやってられないのだった。
しかしながら、柳は足があまり早くない。というか、はっきり言って遅い。足が遅いから書道部にいるのか、書道部にいるから足が遅いのか。――という訳で。あっさり回り込まれ、道を塞がれた。ここで更に逃げられるほど、持久力もない。
「頼みたいことがある」
「……何?」
鞄を握り締め問い返す。初めてまともに見た相手は、やはり何度見ても不審だった。長身と長髪はさておき(怪しさを倍増させていることは否定しないが)、何より怪しいのは全身黒ずくめという服装だろう。制服の衣替えが待ち遠しいこの季節、暑くないのだろうか。
「『海の中の地図』を探し出し、封印してほしい」
また、意味の分からない言葉が出てきた。
「そんなもの、知りません」
「知らなくて当然だ。むしろ知っていたら、こちらが驚いた」
飄々と言い、更に言葉を続ける。
「だが、仮にも『術師』の端くれなら、協力してもらわなくては困る」
「……私は、その『術師』とやらじゃありません。他を当たって下さい」
「馬鹿な」
鼻で笑われてしまい腹が立ったが、知らないものは知らないし、違うものは違うのだ。そもそも言葉を聞いたのが初めてなのだから、仕方ないだろう。
「弱いようだが、『紙術師』としての力を持っているだろう」
「だから、知らないと言って――」
「見たいか?」
柳の言葉を遮り、男は指先を向けてきた。その鋭さに、柳は後ずさる。
「見なくては信じられないなら、見せる方法もある」
「……あなた、何者?」
この世には人の知識の及ばないことがあると、柳も分かっている。幽霊や妖怪がいたっていい。けれど、共存できるかどうかは別の話だろう。人の世界、幽霊の世界、妖怪の世界は、交わらない方がいいのかもしれない。何かの拍子に交わってしまう程度の方が、互いのためにいい気がする。
それはさておき、その「人ではないもの」が柳と何の関係があるのだろうか。いや、下手をすると柳も「人ではないもの」に含まれているような口調である。
「私も、『術師』の一人だ」
腹が立つくらい簡潔な返事だった。
「じゃあ『術師』って何?」
「古代から続く異能の一族だ。元は巫女を排出した一族だったんだろうが、次第に力を持つ者が増え、権力を握ることもあった」
異能を持つため、時代によっては迫害の対象ともなりかねない。そのための自己防衛策だ。しかし時と共に国も変わり、一族は歴史の裏側から姿を消した。
結論を言えば、『術師』は息を潜めただけだった。現代においても一族は存在し、続いている。もっとも、全一族を束ねるほどの力はない。力の強い中枢のみを束ね、力の弱い者は人に混じって生活している。人に混じって生きる者には、自らが『術師』であることを忘れた者も多いという。
「お前も、その一人だな」
大きなお世話だ。しかし「一族」というならば、血筋で受け継がれるはずだ。柳の場合にも当てはまるならば、両親どちらかが『術師』ということになる。
「それで、私は『紙術師』なの?」
「そうだ。紙を媒介とし、力を使う」
まだ半信半疑だったが、完全に嘘とも思えなかった。ここまで話を作る手間を考えると、あまりにも割の悪いサギである。しかも相手は高校生だ。
「私に何をしてほしいの?」
「『海の中の地図』を探し出し、封印してほしい」
それは何かと尋ねると、再び簡潔な答えが返ってくる。
「『海の絶対の加護を得るもの』だ」
……全く訳が分からない。地図というものだから『紙術師』という発想は理解できるが、海の地図では海図だろう。
「海図のこと?」
「いや。物理的に何かを得られるものではない。海神の力を借り、海そのものを操る媒介だ」
「物理的でもないのに、どうやって海を操るのよ。」
何が言いたいのか、やはり分からなかった。海を操るというのなら、何か必要なのではないのか。
「確かに紙に書かれているが、それは始めだけだ。紙に込められた力を取り込めば、ただの紙になる。」
「それは、『術師』じゃなくても使えるもの?」
「使うだけならな。だが、封印するには『術師』の力がいる。」
ややこしい作りになっているものだ。どうせなら使うだけでも『術師』の力とやらが必要ならば良かったのにと、思わずにはいられない。
しかしその前に、あっさりと爆弾が落ちた。
「世界の崩壊に加担したくなければ、協力しておいた方が正解だと思うがな。」
「ちょ、何その『明日は雨が降ります』的な口調で言う槍の降りそうな天気予報は!?」
「……どういう意味だか分からん」
――別に分かってもらおうとは思わないのだが、眉間に皺を寄せて言わなくてもいいだろう。
「とにかく、それだけ危険なものだ。個人の手には余る」
「個人の手に余るものが、どうして野放しなのよ」
「封印くらい、してあったさ」
鼻で笑いかねない口調で言い放った。しかし封印してあったはずのものを、なぜ封印しなくてはならないのか。そもそも、なぜその依頼を柳に頼むのか。他にも『術師』はいるだろう。きちんと『術師』としての自覚を持ち、柳よりも強い力を持った『術師』が。
「ただ、そこらの阿呆が狙っているらしく、今までの封印では見つかる可能性がある。更に強力な封印を施すか、いっそ消滅させるのも手だな」
何でもいいから、他を当たってほしかった。あまりにも途方もない話で、それこそ柳の手には余る。というか、何も知らない状態で放り込まれても困るのだ。何とか状況を把握しつつあったが、どうすればいいのかは全く分からない。そもそも『術師』の力はどうやって使うのか。
また、この男が何者なのかも未だに謎のままだ。怪しいと思うのも馬鹿らしくなったが、それでも一般人と思うのは一般人に失礼である。柳自身、できれば同じ人種に括られたくはない。というか、絶対に嫌だ。
「まあ、その辺はいいわ。どうせ聞いても分からないし」
理解することを早々に放棄し、柳は手を振った。それよりも、名前すら知らない現状の方が問題だ。
「ところで、名前聞いてもいい?」
「名前?」
怪訝な顔をされてしまった。そんなに変なことを聞いただろうか。
「リョウ、だ」
「リョウ?」
漢字が当てはめられない名前だった。少し考えるだけで、いくつも漢字が浮かんでしまう。
「漢字は、ない。片仮名だとでも思っていればいいだろう」
漢字がないとは、随分と変わった名前だ。いや、日本人でも漢字ではない名前はあるが、それにしても片仮名とは変わっている。
けれど、そこは深く追及しないことにした。名前にはその人の個性が表れる。この人に限って片仮名というのも、それなりに似合ってる……ように見える。
「私は九条柳。よろしく、リョウ」
そんなこんなで、柳は『海の中の地図』の封印を頼まれてしまったのだった。何だか分からないながら、とにかく『術師』に関することを色々と聞かされている最中である。
そういえば、『術師』の力を持っていたのは母親の方だった。聞いてはいないが、何となく同じものを感じ取ったのだ。それは母親も同じなのか、柳が気付いた日に自ら明かしてきた。知らないままなら、それで済ませるつもりだったらしい。自分が『術師』であることを秘密にして、母は今まで生きてきた。父も知らないらしい。
知らせなくてもいいと、柳は思った。知らせても周りができることなどないと、直観的に思ったから。それよりも、柳の力がとの程度のものなのかということの方が重要だった。
力が弱いと、リョウは言った。母も、決して強い力を持っている訳ではない。むしろ力が弱いからこそ、普通の人として生活できていたのだ。娘の柳が、強い力を持つはずがない。あまりに力が強ければ封印することもあるらしいが、その必要がない程度の力しか持たないのだ。
紙を以って世を渡った一族の末裔。
そんな名前を背負い、柳はこの先を生きていくのかもしれない。人には理解されず、知られることすらない力を持って。
そう思うと、先が思いやられるような気になった。
筆先が半紙に触れた時の感覚は、『術師』だからこその感覚なのかもしれないと思った。紙と一体になるなど、普通では考えられない。
(でも、どうやって力を使うってのよ)
リョウには『術師』としての力があると言われたが、どうやって使うのかは教えてくれなかった。柳の場合に限らずとも、普通はどうやって力を使うのだろうか。ちなみに、母親は力を使ったことがなかったので全く参考にならなかった。そもそも使おうとも思わなかったらしいので、極めて幸せな人である。
(とにかく、このままじゃ困るのよ)
溜め息をつきたい気分で筆を滑らせた。書いている文字は「気炎万丈」、先日言われたコンクールに出展する予定の課題である。何枚書いても、正直、何とも思わない。上手いとも下手とも、本人には分からないというのが柳の感想だったりする。
「柳、大丈夫?」
「……あんまり」
しかし同級生にも心配されるほど、文字に影響が出ているようである。
「でも、今日は終わりだって」
「え、何で? まだ時間には早いのに」
時計を見たが、いつもより三十分は早い。いつもなら時間いっぱいまで練習させる先生が、今日に限ってどうしたことか。
「何だか用事があるんだって。っていうか、いつもが暇すぎるんじゃないの、あの先生」
「…………」
思わず深々と納得してしまった。そこそこ有名なのに、あまり忙しい人には見えない。首を傾げたくなる「嘱託教諭の七不思議」である。……もっとも、他の六つはないのだが。
「じゃ、私も片付けなきゃ」
「あ、うん」
硯を持ち上げ、墨を捨てる。散らばっていた半紙をまとめ、鞄に挟み込んだ。片付けを終え、一人で書道室を後にする。というか、柳が最後だった。他の部員は柳が呆けている間に、片付けを終えていたらしい。……もっと早く声をかけてほしかった。
校門をくぐり、歩き出す。しかし、後ろを歩く人影があった。まさか後をつけている訳でもないだろうが、あまりいい気分ではない。かといって先を譲っても、今度は逆に自分が後を追う側になりかねない。
(どうせなら、先に行ってほしいわ)
いっそ歩く速さが思いきり違えばよかった。そうすれば距離が開くだろう。しかし、ほとんど同じ速度で後ろを歩いている。
(……まさか、ね)
いや、たまたま同じ方向に向かうだけの話だろう。というか、じゃないと怖い。先日のリョウといい今日といい、どうして変な話に巻き込まれているのだろうか。
もっとも、走り出さない程度の学習はしていた。どうせすぐに追いつかれるのがオチだ。――が。
「失礼、そこのお譲さん」
(嫌――っ!!)
思い切り普通に声をかけられた。とっさに『森の熊さん』を思い出してしまう辺り、何か違う気もするのだが。
「そこの制服のお譲さん」
わざわざ言い直さなくても、柳の他に人はいない。まさかとは思うが、自分を不審者だと自覚していないのだろうか。……リョウといいこの少年といい、変な世の中になったものである。
「な、何でしょう?」
とはいえ、二度も呼ばれて無視できるほど大物ではない。かなり不自然な動きながらも振り返った。
そこにいたのは、自分と同じくらいの年の少年。しかしリョウとは対照的に、全体的に色素が薄い印象を受けた。
「貴女、『術師』ですね?」
「っ!?」
なぜそれを知っているのかと驚愕した。『術師』のことは『術師』しか知らないはずだとリョウに言われていた。――知っているということは、この少年も『術師』の関係者。
「それも、『紙術師』だ」
「……貴方、何者?」
柳の後をつけていたとしか思えない、謎の少年。けれど、『術師』の存在を知っている。
「ボクも『術師』の一族なんですよ。まあ力そのものは、さほど強くないですけど」
「それで、私に何か用?」
何者かは、ある程度の予測ができていた。だから、それはどうでもいい。問題なのは、なぜ柳に声をかけたのか。
「どうやら『海の中の地図』を封印するようですが、それを止めにね」
柳はとっさに身構えた。なぜなのかは分からない。おそらく本能的な反応だったのだろう。
「貴女が何を思って封印しようと考えたのかは知りませんが、存在していなくてはならないものというのも、世の中にはあるでしょう?」
「……その中に、『海の中の地図』も入ってるってこと?」
何を信じていいのか分からなくなってきた。リョウは封印の依頼をしに来たし、この少年は封印しない方がいいと言う。短い間に両極端なことを言われたのでは、混乱してしまうのが普通だろう。
「その通りです。なくては困る」
なぜか、この少年が正しいのだと思った。何の根拠もなく、ただ漠然と。最初にリョウを信じたのは、間違いだったのだと。簡単に信じてしまった自分は、浅はかだった。
「じゃあ、このまま放っておいて大丈夫なのね?」
「ええ、もちろんです。封印されなくて助かりました」
邪気のない笑みを向けられ、柳は戸惑った。何もしていないのに、それが良かったと言われてしまうと反応に困る。
「……やはり現れたか」
しかし、遮ったのは低い声だった。
「まあ、予想はしていたが」
振り返ると、そこにはリョウが立っていた。相変わらず表情は乏しいが、それでも機嫌が悪いということだけは分かった。
「久し振りだね。いつまでボクの邪魔をするつもりだい?」
「お互い様だろうが。相変わらず妙な一人称を使っているようだな阿呆」
どうやら二人は知り合いらしい。……それにしては、言葉の端々に刺が混じっている気がするが。
「いいじゃないか一人称なんて何でも。ボクはボクが気に入ってるからいいんだよ」
「ややこしい外見をしているんだ、どっちかに統一しておけ」
「君ほどややこしくないよ。大体ね、何その格好。暑くないの?」
柳が突っ込めなかったことを、あっさりと言ってしまった。何者なのかは振り出しに戻ってしまったが、何にせよ大物である。
ここまで聞いていて分かったことと言えば、せいぜい外見と性別が一致していない(らしい)ことくらいだ。男に見えるということは、実は女なのだろうか。
「そんなんで歩いてたら不審極まりないよ。そこで目立ってどうするのさ」
「そもそも外に出ないから問題ないな」
「うわ、それ引きこもりだよ。外はいいよ、楽しいからね」
「お前と一緒にするな。そもそも『術師』が外にでてどうする」
――なぜか、際限なくコントに聞こえてきた。真面目に話す気がないのなら、放っておいて帰ろうか。勝手に決着をつけ、その上で柳の所に持ち込んでほしい。柳には分からない次元の話のようだ。
「……私、先に帰るわ」
ボソリと呟き、さっさと背を向けた。
「あ、ちょっとお譲さん。ほら、君が怖いから逃げ出したじゃないか」
「……違うだろう」
この場合にのみ、リョウの呟きは正しい。別にリョウが怖いとかいう話ではないのだ。だが、本人達に自覚は皆無らしい。困ったものだ。
「え、違うの?」
「ええ、まあ……」
何と答えていいのか分からず、曖昧に頷いた。
「あ、そう。――でもね」
ふと、相手の表情が切り替わる。背筋に冷たいものが走るのを、柳は確かに感じ取った。
「『海の中の地図』、封印されると困るんだよなぁ」
気迫に呑まれ、知らず後ずさる。先程までの軽薄さは、少なくとも表面だけのものだ。本来の性格は、ここにある。
「ボクはね、お譲さん。お譲さんの敵に当たる人間なんだよ。――一応ね」
軽やかに笑みを浮かべ、正反対の言葉を紡ぐ。その激しい違和感に、恐怖すら覚えてしまった。
「でも、敵だからって殺そうとかは考えてないよ。見たとこ、大した力も持ってないようだしね。ただ――」
一瞬で、浮かべていた笑みすらも消えた。
「邪魔をするなら、容赦はしない」
「邪魔ならば、させてもらう」
言葉を失った柳に代わり、リョウが遮った。
「『海の中の地図』は、必ず封印する。あれは、あってはならないものだ」
「ふーん? 君が作ったのに?」
鼻で笑って返された言葉に、柳は驚愕した。今、何と言った?
「それ、どういう……?」
「あれ、知らなかった? それは悪いことしたかな」
微塵も悪いと思っていないのは、口調や表情から明らかだ。しかし、柳が知らなかったことに関しては意外だったらしい。
「お譲さん――て呼び続けるのも失礼かな。お名前は?」
「や、……柳、です」
元の人好きのする笑みに戻ったが、柳は警戒を解けなかった。
「ヤナギさん、ね。ボクはケイ。よろしく」
名前を確認したことで、話を続ける意思があるものと思われたらしい。ケイは続けた。
「『海の中の地図』を作ったのは、この男だよ。もっとも、ボクも名前を知らないけどね」
視線を移すと、リョウは不機嫌極まりない顔をしている。だが、少なくとも否定はしなかった。
「……リョウ、本当なの?」
「へえ、『リョウ』ね。……どっちの?」
リョウは答えない。答えを持たないのか、それとも答えることが嫌なのか。それよりも、柳には後半の言葉に疑問を抱いた。「どっちの」とは、どういう意味なのだろうか。
そんな柳の疑問に気付いたのか、ケイが答えを出した。
「ヤナギさん、こいつはね、どっちつかずの裏切り者だよ。――誰の味方になることもない」
誰の味方にもならず、誰の敵にもならない。それこそが、リョウの本質なのだと。けれど、それだけでは理解できなかった。
「……どういうこと?」
「二種類の『術師』としての力を持っている。どちらの一族にも属し、どちらの一族にも属さない。そういうことだよ」
何が「そういうこと」なのか分からない。柳が聞きたかったのは、そんなことではない。
「そもそも『術師』の力を持てるのは女だけだ。男の『術師』というだけでも異質なのに、それだけ大きな力を持つと異端でしかない」
大きな力は、時に災いを呼ぶ。それはそれで理解できる。だが、柳の中で何かが切れた。それは、俗に堪忍袋と呼ばれるものだったのかもしれない。
「誰があんたに聞いてるのよケイ!! さっきから一人でペラペラ喋って!! リョウ、どうなの!?」
弁明、釈明、その他諸々の一切を放棄した態度に、とにかく腹が立った。その気になれば力ずくでも納得させる、そんな気概が全く見えない。柳には、なぜか小馬鹿にし切った態度しか見せていないくせに。
「どうとでも。答えなど、誰に尋ねるかで違うだろう」
「じゃあ、リョウはどう思うの?」
逆に尋ねると、リョウは微かに表情を揺らした。それがどれだけ柳を驚かせたか、リョウが知ることはないだろう。そのくらい、今までは何もなかった。
「別に、何も。そう言われてきたのだから、そう思っているだけだ」
「事実でもあるしね」
ケイが口を挟んだ。キッと睨み、柳は続ける。
「――本当に?」
何も思わないなどということが、本当にあるのだろうか。時と共に何も思わなくなることはあっても、最初から何も感じないなどということは少ない。何も感じないのは、興味のないことだから。自分とは、何の関係もないことだから。
それが自分のことならば、せめて最初くらいは何かあったはずなのだ。人であるならば、当然の感情が。
「本当に、何も思わなかったの?」
「さあな。もう忘れた」
素っ気ない答えしか返ってこなかったため、柳は不完全燃焼しかできなかった。それを更に、ケイが追い打ちをかける。
「ま、そりゃそうだろうねえ」
リョウが何も感じない、そのことを当然と受け止め受け入れている。どこが当然なのか、問い詰めてみたくなった。
「それよりね、ヤナギさん。悪いんだけど――やっぱり、ここで『さよなら』」
「え……?」
ケイの指先から銀色の糸が現れ、柳の身体に絡みつく。身の危険を越え、命の危険を感じた。
「邪魔されるんじゃ、ボクも困る。だったら危険な芽は摘んでおかないと」
「きゃ……」
誰に助けを求めればいいのか分からない。柳の力は弱いのだと言っていた。ならば、敵うものではないだろう。
「『さよなら』――って、今日会ったばっかりだったね」
「――っ!!」
その時、身体の奥が熱くなった。瞬く間に熱は大きくなり、全身に広がる。指先まで広がった時、反応があったのは身体の外からだったような気がした。
近くに落としてしまった鞄から、部活で書き損じた半紙が出てくる。
「馬鹿な!?」
柳の身体に絡みついていた銀糸が、燃えていた。けれど熱くはない。
一瞬とも言えるような短い時間で糸を焼き尽くし、紅蓮の炎は消えた。
「今、何が……?」
訳が分からないまま、自分の両手を見る。しかし、変わった所はなかった。その手に、さっきは視界の端に映っただけの半紙が落ちる。
「あっ!?」
確かに書いたはずの「気炎万丈」の文字から、「炎」だけが消えている。
「なるほど。そうして力を使うのか」
納得したような口調でリョウが呟いた。
「文字に力を込める、それが力の使い方だな」
「納得してないで!! どうして先に教えてくれなかったのよ!?」
抗議するも、リョウは涼しい顔で答える。
「知らないものを、どうやって教えろと言うんだ? 力の使い方は、それぞれの『術師』が自力で見つけるしかない」
だったらせめて、それを言ってほしかった。そうすれば柳だって、方法を探そうと何か動くことができたのだから。
「それよりも、問題はアレだろう」
リョウが指差したのは、ケイだった。柳の持つ半紙を凝視し、放心している。
「なぜ、ボクの『術』が……」
「力が強かっただけだ。見誤ったな」
何が起きたのか、本人ですらも分からない。力が強かったと言われても、実感が湧かないのだ。
「まさか……『魂の伴侶』の……?」
「考えられるのは、そのくらいだろう」
また、柳の知らない言葉が出てくる。自分のことなのに、柳だけが分からない。リョウもケイも、柳のことなのに分かっているというのに。
もう、全て放棄してもいいだろうか。
ふと、そんなことを考えてしまった。二人が分かっているなら、柳が手を出す必要はないだろう。二人で片付けてくれれば、それで解決するのではないだろうか。役に立たないのであれば、柳がいる意味がない。
「とにかく、力の使い方も分かった。これで『海の中の地図』を封印できる」
「……私、行かない」
柳の呟きに、二人は同時に振り返った。
「何を……」
「二人が分かってるなら、二人で行けばいいじゃない」
リョウを遮り、柳は告げた。何も分からない柳より、きちんと分かっている二人の方が早く済むだろう。
「分かってないなあ、ヤナギさん。ボクと……えーっと、リョウ? で丸く穏便に済むはずないって」
「……そうじゃないだろう」
冗談のような口調のケイとは対照的に、リョウは渋い顔をした。しかしながら、ケイの方は本気である。
「ていうかボク、こんな訳の分からない奴と行くの嫌だよ。そもそも封印するつもりないし」
「……貴様、少し黙ってろ」
ついにリョウが一発殴って力ずくで黙らせ、柳に鋭い視線を投げた。怯みそうになったが、辛うじて踏みとどまる。
「どういうつもりだ」
「私、何も分からないから。二人が分かってるなら、二人で行けばいいじゃない」
どうでもいいと思った。柳でなくてもいいのなら、柳が行く必要はない。リョウもケイも『術師』なのならば、なぜわざわざ柳に頼もうと思ったのか。――特に、リョウは。
「私が行く必要、ないじゃない」
「分かってないなあ、ヤナギさん。ボクがこいつに手を貸す義理は、どこにもないよ」
ケイは軽い口調で肩を竦めた。
「もっとも、ヤナギさんに言われれば別だけどね」
「……どういうこと?」
聞き返すと、ケイはぎょっとしてリョウを振り返った。ビシッとリョウを指差し、思いっきり叫ぶ。
「ちょっと待った。君まさか、ヤナギさんに何っっっにも話してないの!?」
「何を話せと言うんだ?」
かなり本気で聞き返したリョウに、ケイは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「かーっ。こんな唐変木に声かけられたヤナギさんに同情するよ。何も知らせずに、よくそんな面倒なことが頼めるね」
何を知らされていないのか、柳には分からない。というか、その辺の事情はケイに話してもらった方が賢明な気がしてきた。
「あの、……何の話?」
「ヤナギさん、ボクが色々話してあげるからねっ!!」
「……はあ。」
リョウを味方ではないとか散々なことを言っておきながら、ケイの方も敵か味方か分からなくなってきた。というか、段々と見方に傾いてきた気がするのは柳だけだろうか。
「さあ、どこから話そうか。やっぱりここは、ボクとリョウの出会いから……」
「そこは飛ばしていいです」
出会いとか言われても、あまり聞いても楽しい話ではない気がする。慣れ染めとか言わない辺り、まだマシなのかもしれないが。
「じゃあ、何から?」
あからさまに不満そうなケイに尋ねられ、柳は少しだけ考えた。まずは、何から知るべきなのだろうかと。
「……『魂の伴侶』って何?」
何よりも自分に関係ある(と思う)ことから尋ねた。正確には、「『魂の伴侶』の」だったが。
「完全に陰陽が噛み合った夫婦を、そう呼ぶんだよ。この世でたった一人の、ある意味では運命の相手を」
普通は出会ったりしない存在。けれど、この世のどこかに必ず存在している。その相手と出会うと、『術師』の世界の常識を超越したことも起こりうるという。たとえば力が増幅されたり、あるいは身体の治癒能力が強まったりする。
また、本来は血で決定するはずの『術師』としての力が、血筋に関係なく強い力を持つ子供が産まれたりもするらしい。――柳の両親は、おそらく『魂の伴侶』。だからこそ『術師』として強い血筋を持つはずのケイの『術』を撥ね返した。それは、普通ではあり得ないこと。
「後ね、ボクの『術』を撥ね返したことと関係あるんだけど。ボクはヤナギさんに負けた。だから、ボクはヤナギさんに従うよ」
柳を含む『術師』の世界は、力の強い者が正義。勝った者は負けた者を従え、服従を誓う。だからケイは、柳に従うことが決定した。――ケイの『術』を、柳が撥ね返した時点で。
「どんな理不尽な命令にでも、ボクは従う。それが掟だからだ」
真顔になったケイは、真っ直ぐに柳を見た。内包物のない宝石のような瞳に、笑いは欠片もない。飄々としているように見えても、ケイの本質はここにある。
「だからね、もしヤナギさんが『海の中の地図』を封印しに行きたくないなら、ボクはヤナギさんを守るよ。――そういうこと」
「じゃあ『海の中の地図』は、何のためにあるの?」
「それは製作者に聞く方が早いよ」
ふと元の軽い調子に戻り、リョウを振り返った。渋い顔をしている反面、長い説明を省略できたことで楽をしたとでも思っているような顔をしている。
「……あまりにも生活手段を持たない者のために、せめて漁業で生計を立てられるようにしただけだ。海からの加護が一片でもあれば、何とかなるからな」
海に近い場所では農業が成り立たない。その代わりとして、漁業が行える程度の力を込めたらしい。その源には、かなりの力を残して封印しておいた。少しずつ少しずつ、分割して加護を得られるように。
「ただし封印を解いてしまえば、絶対的に海神の加護を得られる。それを狙っている輩が、最近になって動き出した」
海神の加護を得てしまえば、地球の七割を支配したも同然になる。だからこそ『海の中の地図』を狙う者は後を絶たない。今までは封印が強力だったため安全だったが、時と共に封印も緩み始めている。このままではいずれ封印が解け、何者かが海の覇権を握ってしまうのだ。
「ここまで話すつもりはなかったんだが、そこの阿呆が絡んだのでは仕方ない。――どうする?」
どうすると問われても、あまりにも規模が大きい。ただの高校生が、なぜ世界の行方を問われなくてはならないのか。すぐには答えが出せなかった。
「あ、ちなみに。ボクだけを唐変木と一緒に行かせるってのは無理だから。掟じゃ、ボクはヤナギさんだけを守ることになってるからね」
ならば結局、柳が行かなくてはならない。たとえ何も分からないとしても、それは新たに学びながら。……教師が教師だけに、少々不安は残るのだが。
「――分かったわ」
柳は心を決めた。まだ何だかよく分からないが、『海の中の地図』は必ず自分が封印すると。
「ま、手伝うのはそこの唐変木だけじゃないしね」
「……さっきから聞いていれば、唐変木と何度言う気だ。よく飽きないものだな」
「事実は何度言っても変わらないからねぇ」
ケイの溜め息。
やはり、柳には漫才にしか見えなかった。何というか、どこまで言ってもこの調子で突っ走るのかと思うと先が思いやられる。頼むから肝心な時に、気の抜けるようなことは言ってほしくないものだ。……まさか大丈夫だと思いたいが。
「それじゃ、まずはもっと具体的なことを教えてちょうだい。私、分からないことが山積みなんだから」
二人を止め、先に歩き出してから振り返った。
…………ごめんなさい、続く。
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「The last song」 連載式? 著 二年生 :つるのやまだ |
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自分の気持ちが分からなくなり厚い雨雲に姿を晒す。私は何故ここにいるのであろうか。自分ではここに居てはいけないという念に駆られているのに。あの春の日。ずっと前を向いていたあなたは、いきなり消えてしまった。二人とも立派に成長したとき、大人になったとき、春の昼下がりにでも会いましょうと約束した。でも会えなくなってしまった。別れるとき私は言った。
「この言葉は終わりの言葉でもあり、続く言葉でもあるのよ」
あなたは笑って、「また会いましょう」と言い出発した。
その後、あなたから届く手紙を一度も読まなかったことはない。私は私なり、次に会うときに顔を見せられるように動いてきた。だけどあなたはいなくなってしまった。愛する私を残して行ってしまった。当てようのない深い湖の底のように黒く、小刀のように尖った気持ちをどうしたらいいのだろうか。
この気持ちを抱きしめ、刺さった心から流れる血を止めることはできるのだろうか。このまま私の心は熱を失ってしまう。そして、あなたの元に行ってしまいたい。だけど、決して相容れない世界だから、私には行く権利が無い。このどうにも出来ない状況に逆らえば逆らう程あなたは離れて行ってしまう。そして、私は刺さったままの心を背負い、眠れずに冷ややかな地面に立っている。
歩き出せば、答えが見つかるかもしれない。でも、それが一生あなたに会う手段を無くすかもしれないと思うと踏み出せない。やはり私にはあなたが大切すぎる。十年という短いようで長いかもしれない時間を過ごしたことを今更捨てることなんて出来ない。私にはあなたを否定することなんて出来ない。
私の記憶の中にはあなたと一緒にいたことで沢山で、何一つ捨てることができない。
気づけば雨が降ってきて、私の体を濡らし始める。出来るのなら私の心から流れる血を洗い流してくれ。――体温なんて関係ない。すでにあなたがいなくなったときに私の身体は冷め切ってしまったもの。もはや痛覚の失った心に雨は沁みない。あなたがいなくなって一年と七十四日。こうして雨に濡れるのは二十四回目。まだあなたが見えない。
涙が自然に流れ、雨に混じり落ちていく。薄くなった涙の味は私には毒としか思えない。自分の中に広がる毒の痺れに震えていると、私の混乱した世界が頭の中に浮かんできた。
黒く彩られたドレスに身を包み、赤く咲き乱れた彼岸花の中に埋もれる私。彼岸花の形と色に悦に浸る私。向こう側から歩いてくるあなた。「やっとあなたに会えました」と手を伸ばした瞬間に私の腕はかぶれていく。彼岸花の毒か、もしくは私の涙か。かぶれはどんどん広がっていき、やがて私の視界を隠す。夢の世界でもあなたには会えないのか。
「ユリ姉さん!」
その言葉に私は我に返る。雨降る夜の通りに私は店のシャッターにうな垂れていた。
「ジュース買ってくるって言って出て行ったのに、帰りが遅いから見に行ったら」
「大丈夫よ。それより今何時?」
「え。今は……午前零時三十四分。それより傘持って行かなかったから心配したよ」
「ごめんね。お姉ちゃん、いつも傘忘れちゃうのよ」
「もう……。ほら傘持って、こんな所にいると風邪ひいちゃうよ。早く帰ろう」
弟は私に傘を渡し、前を歩いていく。幸い、私が物思いに耽っていたことは知られなかったみたいだ。いい加減にこの物思いを無くさなくてはならない。答えが無い問を考えていたって、自分が傷つくだけだ。あれほど、先生に忘れなさいと言われたのに、私は未だに振り切れない。今までに無い考えを抱いて、答えを見つけられない。これほど馬鹿なことはあるか。
「ねぇ、コウくん」
私は弟に問いかける。まだ中学生で思春期の気配もない弟に聞いても無駄だと思った。でも今は話し相手が欲しい。沈んだ気持ちが理解できなくとも、とにかく話してくれればいい。私は更に付け加える。
「大切な人を失ったら、あなたはどうする?」
「失う……? 大切な人を失ったら、悲しむ。僕には、それしか分からないよ」
「悲しいのは当たり前よ。悲しんだ後、あなたはどうするの?」
なんて愚かなのだろう。罪のない弟を言葉で攻める。姉としてはやってはいけない行為だ。弟に示しが付かない。でも私の喉の奥から滲み出る辛さは助けを欲していた。しかし、同時に辛さは喉を焼き尽くすように私の言葉を奪っていった。
「姉……さん? 大丈夫?」
自己嫌悪に陥る私を弟が支える。全く、私は駄目な姉だ。弟に心配されているようでは、あの人にそっぽを向かれてしまう。
「まだ、あの人のことを忘れられないの?」
弟の言葉は間違いなく慈悲だろう。しかし、今の私には侮蔑に捉えられた。気づけば私は心の深層から吐き出すようにして言った。
「黙って」
あの人については触れないで。私は弟を睨み付けていた。まだ、「黙れ」になっていないだけマシだと思った。だが、その声質には完全に『恨み』が混じっていたに違いない。まさか弟に自分の恥じるべき内面を晒してしまうとは、情けない。自己嫌悪が更に深まるのを感じ、私は言葉を加えた。
「――コウくん。私、もう少し考えてみたいの。だからお願い」
ここまでくるともうエゴでしかない。弟もそれを悟ったのか、
「分かったよ。でもヤバかったら僕に相談するんだよ」
弟に心配されてしまった。私はどれだけ駄目な姉なのだ。弟に心配されたり、弟に怒りを散らしたりと、あれから何も癒えていない。心は未だに沈んだまま。何度も繰り返す夜に苦悩して、傷ついて、自分を理解させようとしているけど、駄目だ。どうして私は彼を求めてしまうのか。まだ時間が必要なようだ。
「さぁ帰るよ、姉さん。母さんたちが心配しているよ」
弟から傘を受け取り、私は帰路についた。傘を差したので身体に雨は当たらないが、私の心は土砂降りで濡れたまま。いつ晴れになるのか。自分に問いかけた。やはり答えは出てこなかった。
2
夢は限りあるものと理解している。だからこそ自分の願いが夢の中に現れるのだ。あなたは夢の中で出てきて私の名を呼ぶ。私はその声に応えあなたの元に駆けつける。夢なのになんでこんなに嬉しいのだろう。夢の中では二度と会えないという考えが希薄になっていた。誰がその事実を記憶から消しさろうとしたのか。答えはぼんやりと浮かぶが、今の私にそんなことを考えている余裕は無かった。彼とこうして抱き合うことが私の夢なのだ。いつまでもこうしていたい。
しかし、有限の夢は長くは続かない。日が昇り、私と彼の間を引き裂く。涙を流し悲鳴を上げ、彼の名を呼びながら私は夢を見終える。起きた後の私の顔には涙の跡が付いていた。夢だけではいつ会えるのか分からない。私は夢の中でしか彼に会えないことを恨んだ。それと同時に夢以外に会う方法を模索した。出てくる考えは一つだ。それは愚かで安直で夢見な自分にとっては仕方が無い考えであった。ここにいる理由は無い。もう彼は他の世界の住人、ならば私がそちらに行くまでだ。あなたに再び会って抱きしめ合うまでは、私が努力せねばならない。私は希望を見出した。それが「破滅」という名の道であっても――。磔の愛に誓い、私は進み出す。
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六月一二日木曜日 午前七時二八分
今朝は昨日までの雨が嘘だったように晴れている。外はスズメのさえずりが響き、朝を告げている。ユリが夢から目覚めたのは午前七時のことで、それから自分の顔に付いた涙の跡を流すために洗面所に向かった。彼女は洗面所に向かう間、顔を覆っていた。こんな顔を家族に見られては恥ずかしいのと自分に対しての自嘲の気持ちが沸いていたからだ。眠りから目覚めた後の約三十分、彼女は生きた心地がしなかった。彼氏に会うために「破滅」を願ったのだ。今までそんな願望をユリは持ったことがない。彼との別離がそれほど衝撃を与えたということは彼女も自覚している。しかし何故、死を選ぶようなことを考え付くのか。ユリの気持ちはますます混沌を深めるばかりだった。
ユリは洗面所で顔を洗い、歯を磨きリビングに向かった。母が朝食を作っている。弟の姿が見当たらない。また寝坊か。とりあえずユリは母に聞いてみることにする。
「コウはまだ寝ているの? また遅刻するわよ」
「ああ、コウ君はねぇ、何か『朝からやらねばならぬことがある』とか言って、七時くらいに学校行っちゃったよ。ふふふ、変よね。朝からやらねばならぬとか、まるでお侍さんみたい」
「はぁ……」
予想外の返答に開いた口が塞がらないユリ。まさか、あの永年遅刻坊主コウが早起きをして彼女が朝食を食べる前に学校に行くとは今日は季節外れの雪でも降るのではなかろうか。テーブルに座ったユリは、
「あ、今日はトースト一枚でいいよ」
それを聞いた母は思わず手に持っていた皿を落とした。母にとって今日は奇跡の連続だったようだ。
「ユリちゃん……ひょっとして太ったの?」
「太ってないわい!!」
「だって、最近お風呂上りにため息ばかり付いていたから……」
「まぁため息は……ね。やっぱそれもあるけど、とにかく今日は食欲が無いの。だからトースト一枚でいいよ」
娘の曖昧な言葉に母は疑念を抱きながらも、パンを一枚トースターに放り込んだ。母は更に言葉を加える。
「――それとも昨日のことも関係しているの?」
これ以上疑われても双方の気分が悪くなる。聞き流したい気持ちではあるが、ユリは何とか言い繕うことを決めた。もちろん例の彼についての話題を出されないようにするためでもある。
「そうなのよ。昨日傘忘れて出ちゃってねえ。いやぁ、びしょびしょになってしまった訳ですよ。コウが来なければ、どうなることかと思いましたのよ。全く。そして、風邪を引いちゃって食欲が無いのですよぉ」
風邪は引いていない。どうみても嘘だとバレバレであるが、今の状況を脱出するためにはこうするしかない。ユリは咳を出したりして、風邪であることをアピールした。母は一つ息をつくと、
「そういうことなら仕方ないわね。大学は休まなくていい?」
「休むほどの風邪ではないから。勉強には支障無いわ」
「一応薬を飲んでおきなさい。大学で倒れたら大変なんだから」
「はーい」
台所の奥から風邪薬を持ってきた母はユリに薬と水を渡した。非常に苦しい嘘であったが、母は信じている。微妙な罪悪感を持ちながらも、ユリは一枚のトーストと緑茶を口の中に放り込んだ。薬を服用した後、大学に行く準備をしに、自分の部屋に入った。
ユリは服を着替えている間、昨晩のことを思い出していた。コウは彼女を心配していたことは間違いなかった。母もあんなことを言って、彼女が風邪だと思っているが、実際は嘘だと見抜いているだろう。――家族に迷惑をかけていると確信したユリは自分に対しての不甲斐なさを感じた。泣きたいと思ったが、昨日のこともあり、時間がまだ八時前だということで堪えた。「私はそこまで弱い――人間ではない」と言い聞かせて、ユリは玄関へ降りていった。
「今日は何時までになるの」
「んー、今日はサークルも無いし別に友達とも約束してないから真っ直ぐ帰ってくるかな」
「そう……。今晩はカレーよ。楽しみにしていなさーい」
明るい表情で娘を送る母の目は哀れみが含まれていた。ユリがドアを開けて家から出るときに母は言った。
「ユリちゃん……。そんなに悩まなくてもいいのよ。いつでもいいから私に相談しに来なさい。――無理は禁物よ」
やはりバレていたかとユリは唇を噛む。さすが母だなと思いながら、
「ありがとうお母さん。でも、まだ考えさせて。時間が許す限り考えさせて……」
「自分で答えを見つけなさい。何でも最後は自分で答えを見つけなければいけないのが人だから。さぁ、大学に行った行ったぁ。ここでモヤモヤしてると遅刻してしまうぞ。大学生ッ!!」
靴を履き、玄関を出て行った娘を見送る母。まだ心配の気持ちは残っているが、娘の反応を見て少し安心した。半年前は触れることも出来ない状態だった。あの時と比べて回復はした。しかし、あの出来事は娘にとっては惨め過ぎた。まだ彼女の心は傷だらけで、痛みで悶えることもある。完全に回復することは無いとしても、再び笑顔を取り戻して貰えれば良いと母は思った。
(そのためには、私たち家族が頑張らないとね……)
ユリの回復を願う母は背伸びを一回して、洗濯物を干すために外に出た。雲ひとつ無い降水確率0%の快晴。絶好の洗濯日和である。
「さぁて、私は洗濯物を干しますか!」
母は洗濯カゴを手にした。
3
午前八時三〇分 某B大学・紫陽花通り
いつもより少々遅めに家を出たが、一時限目が始まるのは九時三〇分なので、あまり問題なかった。ユリは餡パンを咥えながら紫陽花が咲き誇る遊歩道を歩いている。正直、気を引かないためにトースト一枚と言ったのがいけなかった。大学に向かう内にトースト一枚分のエネルギーを使ってしまった。風邪で倒れるなら仕方が無いが、空腹で倒れるのは馬鹿らしくて涙も出ない。仕方なく大学前のコンビニエンスストアでパンを購入するに至ったのである。授業開始一時間前という余裕のある時間だったのが幸いだったが、これが開始三〇分前になると大変なことになる。
元々、大学内の売店が開くのは一〇時。講義が始まって三〇分経ってからの開店だ。つまり、大学内で朝食を買うことは不可能なのである。自宅で朝食を取らずに、登校・出勤途中のコンビニエンスストア等で朝食を買うことが普通のこの時勢、更に大学という条件が重なると授業開始直前の店は混雑を極める。一つのレジに五,六人の列が標準で、一回列が完成したら、講義が開始するギリギリまで空くことは無い。列に嵌ったことで講義に遅刻した人も少なくない。ユリの友人もこの朝食購入ラッシュに巻き込まれて涙を飲んだらしい。ユリはそんなものとは縁が無く自宅で朝食を食べ、余裕を持って登校する。今回は例外だったのだ。朝食購入ラッシュへの興味はあったが、友人の恐怖に満ちた体験談を聞くとその考えは消え去ってしまった。徹夜明けで目が血走っている男学生、寝坊してパジャマのような格好の女学生やらラッシュに突入した店の中は狂気に満ちた空間であったらしい。
「さて、今日は木曜日だから……三階の三〇五号室だったけな」
ユリは講義開始約四五分前に講義が行われる教室に着いていた。普段ならユリが一番乗りで着くのだが、今日は違った。教室の窓側の後ろに一人座って本を読んでいる女性。
(――森雛子(ひなこ)!! ついに彼女に負けちゃったか……)
ユリは一時限目から始まる講義がある日は一番に教室に入るという謎のプライドを持っていた。生まれてこの方二〇年。幼稚園、小学校、中学校、高等学校と全ての日に教室一番乗りをしてきたユリにとってはこの敗北は許されざるものであった。
(でも……私の……今までの一番乗り……私の今までのォォォォ……)
グツグツ煮えたぎる気持ちを抑えつつ、ユリは席へ向かった。雛子の方に視線を向けると、丁度目が合ってしまった。
(しかしいつ見ても綺麗だなぁ彼女……)
墨を流したような黒い髪の毛は尾骨まで伸びており、茶色い縁の眼鏡に潜む顔はどんな綺麗な花でも自分の姿に恥じるくらい整っている。性格も静かでお淑やか、時々見せる笑顔は見るものを骨抜きにしてしまう。勉強も学部トップクラス、料理も出来て茶道も嗜んでいるという噂だ。こんな素晴らしい容姿の持ち主である森雛子は学部、いや大学内のアイドルであり前年のB大学学園祭のミスB大に選ばれたほどである。驚くべき点は、彼女が今まで男という存在と交際したことが無いという点だ。汚れも知らぬ乙女という事実は女性情報網内での秘密事項であり、決して狼共に知られてはいけない。大学内ナンバー1の美しさを持つ彼女が未だに男と付き合ったことが無いというのだから、ただでさえ過熱している音子供の争いに油を注ぐことになってしまう。故に守らなければならないという女たちの暗黙の了解――らしい。
(そこまで守られる存在なのかな。雛子さん自体はどう思っているのか分からないけど。でも今の私にはそんなことは考えられないしね……)
交際という単語にユリは目を伏せた。
(やっぱり半年立っても引きずるものね。まだ辛いよ……私)
「あ、あの大丈夫ですか? 顔色が優れないですよ」
ユリが気付けば森雛子はユリの目の前にいた。眼鏡を外し、ユリの顔を舌から覗く形で見ている。いつの間にユリの前に回ったのだろう。ユリは物思いに耽っているのもあるが、雛子の気配を感じ取れなかった。
「だだだだ大丈夫!! 朝ごはん抜いてきちゃったから少しめまいがしたのよ。だからそんなに心配しないで」
ユリの発言に少し残念そうな表情をする雛子。その体は少し震えている。
(う。いきなり突っぱねた感じで返しちゃったからかな。さすがに泣くことは無いと思うけど、嫌な気持ちにさせちゃったかな……?)
「雛子さーん?」
「名前を教えてください」
いきなりの雛子の問いに面食らってしまったユリは「はいッ!」と裏返った声で答えてしまった。赤くなった顔を隠しながら、
「――いきなり名前を呼んでごめんね。ユリ。権藤ユリよ。気にせず下の名前で呼んでいいから」
「分かりましたユリさん。あなた朝ごはんを食べていないって言いましたよね?」
「はぁ……。まぁ、今朝はあんまり食べてこなかったけど。それが何の問題で――」
「問題ですッ! 大問題ですッッ!! 人間が午前中に生きていく熱量を補うのが朝食です。それを抜いてしまうなんて……あなたは何てことをしてしまったのですかッ!!」
雛子の凄い猛(もう)口(こう)にユリは言葉が出ない。あの大学のアイドル森雛子が、たかが朝食抜きで理性を乱すとは。今までユリが抱いていた雛子のイメージは一瞬のうちに崩れ去った。
「ユリさん、朝食を抜けば、熱量が無い。今のあなた状態はガソリンの無い車なのですよ。車はガソリンが無ければ動かない。つまり、あなたは昼食まで動けない体です。ね! ユリさん、今でもいいから朝食は食べましょう!早くしないと講義が始まってしまいます。すぐに近くのコンビニで朝ごはんをさぁ早く!!」
「あの……雛子ちゃん?」
「何か言うことがありますか? まだ時間はありますよ!」
「――私、『今朝、朝食抜いた』までは言ったけど、大学に行く際にコンビニに寄ってパンを買ったんだ。で、ここまで行く間に食べちゃった……」
ユリの自白。雛子はまるで体に電流が走ったような調子で驚愕し、その場にへたり込んだ。
「すいません……。朝食抜きだけは許せなくて、つい勢いに任せて喋ってしまいました。この誤解のお詫びは何としたら良いのか……」
覇気が無い声で雛子はペコペコと頭を下げながらユリに謝罪をしている。謝る姿も可愛らしく、ユリは今にも雛子を抱きしめてしまいそうな程、気持ちが高ぶった。同性愛的な感情は持っていないが、こんな姿を見せられて、平静でいる方が異常だろう。
(あの森雛子が朝食如きで暴走するなんて、常人とは少しズレているなぁ。こういう面がある話は聞いたこと無いから、得をしたといえば、得ね)
ユリが今まで持っていた雛子のイメージは泥中の蓮、泰然自若という世の人間が羨む要素を持っている感じだった。しかし、この朝食抜きによるユリへの弾劾の強烈さ、それが雛子の思い違いだと気付いた途端に謝る姿のしおらしさ、特に前者は今まで見たことの無い実相にユリは雛子に対し好い感触を持った。
「朝食を食べていないという誤解を招いたのは謝るよ。ちゃんと物事を言わなかった私が悪いんだし。別に気にする必要ないよ。朝食抜きがいけないのは同意するけど」
「そうですよね!!」
ユリの同意に雛子は頷き、ユリを見つめる。その目は輝いていて、顔を背けたくなる程透き通っている。ユリは思わず自分の顔が熱くなっていることに気付いた。恐らく顔も赤くなっているだろう。だが、こんなことをしている場合ではない。
「もうこんな時間だけど、人来ないなぁ」
ユリが見た時計は九時二〇分を指していた。開始十分前には大体、人が集まってくるのに、これはおかしい。ユリは三〇五号室に行く前に休講掲示板を見て、この講義が休講でないことを確認した。
「――まさか」
嫌な予感がしたユリは急いで携帯電話に内蔵されているメモ帳を開いた。ユリは一日の講義が行われる教室を書き込んであった。メモ帳には『木曜一限・アイデンティティと共存・二〇五号室』と書かれてあった。
「はは……ビンゴね……」
「ビンゴって何ですか?」
青ざめるユリに雛子が問い掛ける。自嘲めいた口調でユリが返す。
「私たち、教室間違えたよ」
現在ユリと雛子がいる教室は三階の三〇五号室、実際講義はその真下の二階・二〇五号室でやるのであった。また、三〇五号室が一限のときには講義が無いので、学生がこの教室に入ってくる可能性は0%である。
「急がないと遅刻にされちゃう。準備して」
ユリは雛子に片づけを促した後、手を伸ばす。
「え……どこに行くの?」
「三〇五号室よ! 早くしなさい!! あの教師の講義、遅刻イコール欠席になるのよ。私は欠席を気にする女なの。さぁ行くよ!」
手を伸ばすユリを見た雛子は奥底から込み上げるものを感じる。焦げるように熱いユリの言葉を心に打ちつけられ、感に堪えない気持ちになった。
「――はい、いきます」
差し伸ばされた手をゆっくり受け取った雛子はユリに引っ張られながら、二〇五号室に連れていかれた。このとき、雛子は不思議な感覚を覚えていた。
4
ユリが双方の教室の間違えに気づいたおかげで遅刻をせずに済んだ。しかしながら遅刻寸前で教室に入ったことですでに学生でいっぱいの教室は歓声で埋め尽くされた。その中には悲鳴に似た叫びも混じっていた。原因はユリと雛子が入ってきた姿にある。手を繋いで入ってきた二人の姿が一部の者たちには、友人を超えた関係に見えたようだ。在る者はハンカチーフを噛みながら地面を拳で叩いている。在る者は血涙を流し、苦悶の表情を浮かべ、頭を抱えながら苦しんでいる。酷い者はその場で窓から外へ飛んでしまったが、幸いベランダがあったので下に落ちずに済んだ。ユリと雛子の手を繋ぐ姿を見て、奇怪な行動に達した者に共通することはいずれも雛子ファンであることだ。少数ユリファンもいたらしいが、全体の5%程度であった。ユリと雛子が席に着いた後でも、その叫びは続く。
「我々は雛子嬢の忠実なしもべであり、忠実なる犬であるッ!!我々は雛子嬢の幸せを守るものであり、忠実なる騎士であるッ!!この幸せを我々は粛々と歓迎するものであり、守らなければならないッ!!」
「ギャァー!あの雛子ちゃんが!雛子ちゃんが手を繋いでるッ!手を繋いでるッ!手を手を手を手を手を手ェェェェッッ!!!」
「ああ……さようなら僕の青春……さようなら僕の人生……。今日で終わりです。お母さん、お父さん、花子、ポチ、今までありがとな……」
「こらこら……皆さん、静かにしなさい。授業ができませんよ」
老講師品川がその場の混乱を沈めようとするが、老師の弱った声ではこの状態を治めることができない。その時、視点がはっきりしていない痩せ型の男が立ち上がった。震える体から漏れるものは明らかに怒りだった。
「なななな何で……ぼぼぼぼぼ僕の雛ちゃんがあああんな女に……。ゆゆゆゆゆ許せん。許せんぞォ」
「!? あそこにいる男を捕らえろッ!! 奴は雛子嬢とユリ氏の仲を引き裂かんとする下賎な輩。奴を捕らえ、二号館地下に放り込めェッ!! 我々はB大学非公認森雛子嬢防衛隊である!」
「サー、イエッサー!」
「何だ君たちは、や、止めるんだぁ……ああ、ああああーーーッ!!」
痩せ型の男が防衛隊たちに連れていかれる。あの男は二号館地下で何をされるのだろうか。ユリが噂に聞いた情報だと、二号館地下には防衛隊本部が設置されており、森雛子の大学生活を守るために切磋琢磨しているらしい。森雛子に危害を加える者は容赦しない。それは先ほど、凶刃を加えようとした痩せ型の男を確保したことによって証明された。
しかし、あの防衛隊たちが偶然だとはいい、ユリと雛子が手を繋いで教室に入ってきたことを賛美したのは幸運としかいえない。ユリは教室に入るまで防衛隊の存在を忘れていた。そして、教室に入って起こった大混乱で思い出し、自分の安否を心配していた。恐らく防衛隊の主義は「森雛子の幸せは我らの幸せ」であり、森雛子が幸せならば防衛隊は何でも良いということをユリは確信した。去年の文化祭でも出店などを回る雛子を影ながら守っていたらしい。その結果、文化祭日程内には雛子に関する混乱は一件も起こらなかった。全防衛隊員数、男女含め約五〇〇人、これだけいれば雛子の大学生活が安全なのも頷ける。これだけの秩序を保てるのは一部教授からの支援があるからとの噂もある。それだけ森雛子に引かれる人は多いということだ。
痩せ男の乱心の後、防衛隊によって混乱は解消された。やっと落ち着いて講義を受けられると思い、ユリは息をついた。そのとき、ユリの携帯電話が電子メールを受信した。相手は友人の川崎貴志からであった。貴志はユリと雛子より後ろの席に座っている。ユリは男友達と一緒で小声で話しているのが見えた。
[お前、森さんとどんな関係だ!?]
予想できた内容に、ユリは特技のキー早打ち(一秒間に五文字記入可能)ですぐさま返信する。
[あれはハプニングなの! 気にしないで! そんなことより、何で私が防衛隊に捕まらない訳? あの姿は彼らにとって相当ショックのはずよ!]
ユリが今一番知りたかったことは、「何故自分が防衛隊に捕獲されなかったのか」ということである。これがはっきりしないと講義に集中できない。色々と考えているうちに貴志からメールが返ってきた。
[だって……入ってきたときの森さんの顔。幸せそうの一言だったぜ]
(なるほど……って何がなるほどじゃ! 私、雛子さんとそういう関係で見られているってこと!?)
教室に入ってきたときにユリは遅刻への焦りで雛子の顔を見ていなかった。貴志によれば、雛子の顔は非常に悦に浸っていたらしい。手を繋がれただけで気分が高まるわけが無い。それでは何で雛子がそんなに幸せそうだったのか。老師品川の弱った声はユリの耳に届いていない。ユリは講義中ずっと考えていた。一つだけ分かったことは雛子の表情のお陰でユリが防衛隊に消されなかったことだった。
「ゆ……ちゃ……ユリちゃん……」
誰かの声が聞こえてきた。
(誰だろう?)
「ユリちゃん! 指されているよ!」
「え?」
気がつけば自分に向かって笑い声が上がっていた。考えている内にユリはうたた寝をしてしまっていた。そして、品川の指名を無視したのだ。
「おーおー……。ボーッとしてちゃァ、いかんよォ。とりあえずプリントの内容をォ、読んでみなさい」
品川はユリを注意した後、プリントを読むようにと指示した。目を擦りながらユリはどこを読むのかを探していた。
「ユリちゃん、ここだよ」
雛子はユリが読む内容を指差した。同性愛について書かれた論文だった。(同性愛かァ。男同士ではゲイで女同士ではレズね……。コウが筋肉ムキムキの男二人がレスリングをやっている動画を見て喜んでいたな。コウもゲイなの? 晩御飯のときも『ねぇ、姉さん。今晩は餡かけチャーハンかい?』とか言っていたけど、何か関係あるの? でもコウはゲイじゃないと信じる。まだ中学生だもの。――もしゲイだったら……そのときはあの子を去勢させる……ッ!)
こんなことを考えながら論文を読んでいたユリであったが、横目で見た雛子の表情は真剣だった。
(授業中は真面目だな。さすがトップクラスの頭ね)
約三分掛けてユリは論文を読んだ。席に座ったユリに雛子は小声で質問を投げ掛ける。その表情は少し曇っていた。
「ユリちゃん、同性愛ってどう思う?」
雛子の率直な質問にユリは少しうろたえてしまった。しかし、質問は返さなければならない。しかも相手は森雛子だ。変に遠まわしな返答をしたら、がっかりされかねない。ユリは正直に答えることにした。
「全く気にしないよ」
「へ?」
「まぁ色々弊害があると思うけど、双方が幸せならばそれでいいんじゃない? 付き合うということでよくあることなんだけど、一番怖いのは置いてきぼりにされることよ――」
ユリは正直に言ったことを後悔した。あの記憶が呼び起こされる。暗い奥底から昇ってくるユリの心を突き刺すような記憶。昨晩見た心の傷が生む、幸せを引き裂く夢も同時に合わさってどん底に突き落とす。まただ。
「ユリちゃん、大丈夫?」
――第一時限の講義が終わるチャイムが流れている。雛子がユリの左手を握っていた。ユリはその手を握り締める。
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ……。昨晩レポートをやったから、あんまり寝てないの。ごめんね、心配掛けちゃって」
ユリは朝に続き嘘をついた。ユリにとっては嘘は自分らしくない行為であると自覚しているが、これだけは家族以外に知られたくない。自分に嘘をつき、他人に嘘をつく。二重の嘘が今のユリの防護壁になる。少なくとも自分らしくあるためには他人に知られずに自分らしくないことをするしかなかった。
「雛子ちゃん、この後どうする? 私は二限が無いから食堂でお昼食べるけど」
「是非、ご一緒します!!どこで食べますか?」
「じゃあ一四号館地下でいいんかな。今カレーフェアやっていると思うから」
「か、カレー……!? 本当にカレーですか?」
「え、そうだけど、カレー嫌いなの?」
「いえ、大ッ好きですッ!!」
抑揚をつけてカレーが好きなことを主張した雛子。丁度、カレーフェアがあることに気づいてよかったと思うユリ。これ以上、ユリの気分が落ちないようにするためにはとにかく前に進むことだった。立ち止まったら後ろから迫る気持ちにズルズルと引き戻されてしまうだろう。前に何があるか分からない。しかし、答えは前に進まなければ見つけることはできない。それを思い出したユリは気持ちを落ち着けることができた。雛子の一助もあったかもしれない。雛子は気づいていないが、雛子がユリの手を握ってくれたことを感謝した。
(続?)
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